古くから日本の営業スタイルは営業員の根性論と精神論がベースにあった。努力をすれば必ず報われるとする風潮が普通にあった。これは、日本独特の文化である。

 この文化論は二分できる。

 一つは、努力をすること、頑張ることが大事で結果は二の次であるという考え方である。この風潮は、いまの時代にも生き生きと残っている。頑張ればいつかは成果が出る、だからあきらめずに頑張らなければいけない---。この思想は「心さえ真の道を歩みなば、祈らんとても神は守らん」とする日本民族の土着的な生き方にまで行き着く。

 もう一つは、結果がすべてで、途中(プロセス)は問わないとする考え方である。この考え方は戦争から生まれている。いわば軍隊調で、「何が何でも勝て! プロセスは問わない」というのである。

 表現方法はまったく二分されてはいるが、根っこの部分を見つめると一つになってしまう。それは、いずれもプロセスを無視していることである。努力や頑張りが大事で、結果は問わないというのは、実はプロセスを無視していることになる。結果がすべてというのも当然ながらプロセスを無視している。

 この国の文化では、「結果はプロセスが作り出すものである」という考え方は存在しなかったのだ。日本は過去に「プロセスの成果としての結果を実現する」ことを体験したことがないのである。このような精神的な文化をもつ国にSFA(セールス・フォース・オートメーション)が導入されたわけである。

 こうした文化を否定し、科学的な営業の仕組みを導入することのためにSFAは存在するのであるが、文化を否定することは大変な困難を伴う。だから、この国でSFAを企業に根付かせることは大変なことなのである。

外国製SFAの行方

 西暦2000年ごろに鳴り物入りで登場した外国産SFAは、一時期大ブームになって導入企業が相次いだ。しかし、実際に導入した企業を追跡調査すると、導入後はほとんど使用されずに終わってしまっている。いまや存在さえも知られていない、忘れ去られてしまったSFAが、パソコンの中にアイコンだけを残して屍(しかばね)をさらしている---。そんな企業はいくらでもある。なんともむなしい姿である。

 SFAが爆発的なブームになるからには、それなりの背景があった。導入が失敗したからには、それなりの理由がある。すべては時と時のぶつかり合いが生んだことであった。

 当時、大手製造会社では、製造部が合理化活動を続けて、品質や生産性を高め、クレームを撲滅し、コストを下げ、さらには納期管理や在庫管理の技術も高まり、その結果、低コストで品質も高く、故障のない優秀な製品を世に送り出していた。

 こうした経営を陣頭指揮してきた経営者には、計画通りに進む製造部に対し、毎月初めに打ち出す販売予測数値と、月末に締めた販売実績値との乖離(かいり)に解決手段を示そうとしない営業部のふがいなさを怒り、かつ憂慮していた。しかも、営業活動の内部に入り込もうとすると、受注にいたる活動内容がブラックボックスで見えない。製造部上がりの社長と、営業部上がりの常務は、いつもぶつかり合った。社長は営業常務に「営業部はだらしがない」と怒り、常務は社長を「営業のことが分からないお方だ」と反論した。

 SFAが一時期大ブレークした背景で、このような議論が企業内で巻き起こっていたわけである。そこにSFAパッケージが日本に上陸した。経営者から見れば渡りに船の心境であったに違いない。導入を推進する側の「時」が熟したわけである。

 しかし、二つ目、三つ目の時が熟していなかった。

 その一つはSFAの導入を「システム導入」ととらえてしまったところである。そしてパッケージが持つ機能に対して忠実に営業業務を行うように仕組みを作ったことであった。

 もう一つは、営業員にCRM(カスタマー・リレーションシップ・マネジメント)機能に従って営業活動を記録するように指示命令したことであった。そもそもSFAは、米国の在宅勤務者が会社へ逐一報告するためにできたものを下敷きにして周辺機能を作り込んでいったパーケージが多く、使用目的が日本の営業体質とまったく合致しなかったことが根底にあった。

 経営者の熱い思いと、SFAを導入する企業内成熟度が合致しないままに導入したSFAが企業に定着しなかったのはいうまでもない。導入受け入れ側の「時」が熟していなかったのである。

「見える化」と売り上げ増は別のこと

 この後、プロセスの「見える化」をうたい文句として国内製のSFAが登場した。

 「見える化」とは営業プロセスの可視化ということだ。このキャッチフレーズはいたく経営者の琴線をくすぐった。プロセスの可視化は営業改革のうえでは一歩前進であり、IT業界では流行語となった。営業プロセスが見えた結果、上司は営業員を管理しやすいことになったが、営業員が幸福になることはなかった。SFAパッケージにデータを打ち込んでも契約率が上がるわけではないからだ。ましてや、営業プロセスの可視化は上司にとって絶好の営業員管理データになることから、SFAは営業進ちょく管理ツールといわれ始めた。

 事実、SFA上では、正確にシステムにデータを入れ込まない、いわゆるだらしのない営業員とレッテルを張られても成績がずば抜けて優れているものもいれば、逆にSFAパッケージの機能すべてに毎日正確に記載していても、成績上ではからっきし劣等生の営業員もいた。仕事ができる営業員はSFAに記載しないことも多いため、上司がシステムに正しく記載している営業員を人前で褒めると、できる営業員からは「営業はSFAに記載すれば誰でも褒められるんですかぁ?」と皮肉たっぷりに批判されてしまう。SFAは業績を上げるためのものではなかったのである。

 また、「見える化」をうたったSFAでは、プロセスが見えても、次の一手につなげるだけのマーケティング理論が搭載されていない。見えた後の使い方は企業で考えろというスタンスであったのである。

 もともと企業に、「結果はプロセスの成果である」などという文化はない。今の営業上司は、精神論と根性論で育てられている。彼らは過去に、プロセスの成果としての結果を実現することを体験したことがない。こうした上司が部下の活動プロセスを見ても、契約に向けて次の一手を適切に指導できる体制とナレッジがない。

 SFAで可視化できたのは営業員の行動と時間だけである。だから、できることといえば、電子日報を集計した活動データを見て、「在社時間が長い」「訪問件数が少ない」「特定のプロセスから次のプロセスに進まない」ということを叱ることだけだった。

 しかし、最近になって、多くの企業が「現状のものではダメだ」と思い始めている。「上司から叱られるために必要な資料を余計なエネルギーを費やして打ち込んでいることになるから幸福にはなれない」とSFAを先行導入した企業が気づき始めてきたのである。

 それに対応するかのように、最近はSFAを「営業管理から営業支援」とキャッチフレーズを変えているITベンダーが多いが、マーケティング理論があって契約に導くことができるような仕組みになっているかは疑問が残る。

 先行してSFAを導入した大企業の執行役員は、私との対談でこう話している。

 これまでのSFAは性悪説に基づいて展開していたように感じている。「営業はだらしない。営業はだめだ。だからSFAを導入してしっかりとやらせ、それを厳しく管理していくのだ」という思想が根底にあったように思う。

 当社も早くからSFAを導入した。最近は営業支援だというから再導入をしたが、結局のところ営業員は使わない。本物の支援になっていないからなのだ。私は、次のSFAは性善説をとりたい。彼らの中には、すばらしい暗黙知がある。これを拾い上げて形式知化して、それをベースに営業員各人がスパイラルアップしていくようなSFAを構築していきたい。

 SFAには的確なマーケティング理論の搭載が必要である。「見える化」なんて言っているうちは、まだ稚拙。今の営業員から良いものを引き出してSFAを作っていかないといけないとつくづく思う。

 この対談から、SFAはこれだというものが、日本ではいまだに出来上がっていないということが分かる。日本の営業文化に沿って、真の営業支援、すなわち、法人顧客、個人顧客を問わずにLTM(ライフ・タイム・マネジメント、顧客生涯価値を向上させるためのマネジメント)を実現できる新たなSFAを企業は待ち望んでいるのである。

 次回は、「データベース・マーケティングの過ち」を取り上げる。