日本ビジネスシステムズ ソリューション開発部 開発1課 課長 根本美佐子氏

 私が所属する日本ビジネスシステムズ(JBS)は,1990年に設立された中堅のソリューションプロバイダです。当社はこの業界では珍しく,女性技術者が開発部門の約半数を占め,結婚や出産後も,開発者として活躍している人がたくさんいます。

 ソリューション開発部の課長として部下を率いる立場にある私は,女性の技術者たちが子育て中でも働き続けることができるように,様々な配慮を心がけています。それというのも,私自身が,上司や周囲の人々に助けられながら,子育てと仕事を両立してきたからです。

一般事務兼プログラマとしてキャリアをスタート

 私は,エンジニア人生の大半を,味の素ゼネラルフーヅ(AGF)の情報システム部門で過ごしてきました。高校を卒業した後,「まずは手に職をつけよう」という思いから,コンピュータ関係の専門学校に進学し,プログラミングなどの基本的な知識を身に付けました。ここでコンピュータへの興味を深めた私は,迷うことなくコンピュータ関連の仕事に就こうと思いました。

 しかし,その当時,コンピュータ関連の仕事に対する周囲の理解は,「キーパンチャーになるの」というレベル。今のようにITコンサルタントやSEという職種は,ほとんど認知されていませんでした。

 私は,AGFがシステム部門で技術者を募集していることを知り,1980年に入社しました。男女雇用機会均等法が施行される7年も前のことで,女性については「一般事務兼プログラマ」という仕事内容での採用でした。

 入社してまず携わったのは,基幹系システム(メインフレーム)の運用業務でした。一般事務としての仕事はもちろん,頼まれた仕事は何でもやりました。83年頃からは,パソコンやワードプロセサの社内導入を担当し,インストラクターとして社員教育にも携わりました。

 もともとプログラマとして採用されたのですが,実際にプログラミング作業に従事できたのは,入社6年目の1985年頃からです。それ以降の約10年間は,営業支援,販売管理,人事管理,経営情報など,あらゆる業務アプリケーションの開発に携わりました。

子供が1歳になるまで在宅勤務をこなす

 プライベートでは,86年に結婚し,92年に長女を出産しました。AGFの情報システム部門は,部員の半分を女性が占めるという,当時の情報部門としては珍しい職場でした。しかしそのような環境であっても,出産経験のある女性エンジニアの先輩は一人もいませんでした。

 「子供を育てながら働き続けたい」と考えていた私は,出産を前に「在宅勤務はできないでしょうか」と上司に相談しました。育児休業法によって1年の休職期間は保証されていましたが,技術が日進月歩のIT業界です。1年も現場から離れてしまうと,技術の進歩から取り残されてしまうと考えたのです。

 すると上司は,「それはいい考えだ」と会社に掛け合って下さり,特例で在宅勤務を認めてもらうことができました。こうして保育園に入園するまでの1年間,自宅で業務アプリケーションのプログラミングを中心に在宅勤務を行うことになりました。ただ,他部門から,「そこまでして働かなくてもいいんじゃないか」「なぜ,システム部門だけ特例が認められるのか」という意見もあったと聞いています。

 会社から貸与されたパソコンでプログラムを開発,日常の連絡はホスト系のメールとFAXでやり取りしました。当時の通信環境は現在とは比べものにならず,モデムの伝送速度は9600bps。実行速度は2400bps~4800bpsぐらいでしたが,送信するデータ量も小さかったのでそれほど不都合を感じませんでした。現在はもっと楽に自宅で仕事ができる環境になっていますね。

 もちろん在宅勤務とはいえ,全く出社しないわけにはいきません。週に1度は出社し,仕事の進捗を報告したり,打ち合わせを行ったりしました。そのときには,通勤途中で実家に立ち寄り,母に子供の世話を頼みました。

 子どもを保育園に預け,職場に復帰してからが,さらに大変でした。夫婦で時間をやりくりし,協力し合いながら,何とか仕事と子育てを両立させている状況でした。それでも保育園の送り迎えがあるため,他の社員と比べると遅い時間まで働くことができません。

 勤務時間は,当時導入されていたフレックス勤務制度を利用して,他の社員より1時間早い8時~16時40分を基本としていました。残業できないというハンディを補うため,資料のまとめや翌日の仕事の準備は帰宅後や休日に行い,新しい技術についてのマニュアルや雑誌を読むのは電車の中でした。遠距離通勤ということもあり,朝は5時半に起きて朝食を準備し,夫と子供が寝ている間に家を出るという毎日。保育園に送っていくのは夫,お迎えは私が担当しました。小学校に入ってからも同じで,あまり楽にはならなかったですね。

アウトソーシングでシステム部門が縮小,新天地を目指す

 96年頃から基幹系から一転,ロータスノーツを使ったデータベース開発やERPパッケージの導入検討などを担当,徐々に情報システムを構想・企画するシステムエンジニアの仕事が増えてきました。実際の開発は部下に任せ,彼らが開発したものをチェックする,プロジェクトマネジャーとしての役割を担うようになったのです。

 昇格試験を受けたのもこの頃。3度目のチャレンジで,99年に課長に昇格しました。AGFに限らないことですが,女性の管理職は非常に少なく,私は全社で4人目,子供がいる女性としては初めての昇格でした。受験のチャンスは平等に与えられていましたが,「子供がいて,フレックス勤務をしているのでは,管理職の職務はまっとうできない」と言われたこともあり,実際に昇進するのは簡単ではありませんでした。

 98~99年になるとシステムの2000年問題が現実味を帯び,その対応に追われることとなりました。そして無事,2000年を乗り切ったと思ったとたん,私のキャリア人生を変える出来事が起こったのです。

 受注・物流系システムを親会社の味の素へアウトソーシングする検討が始まりました。そうなると一部のシステムを除き,AGFの情報システム部門は企画のみで,開発業務はなくなります。私はアウトソーシングを検討する「タスクチーム」の一員として作業を進めながらも,自分自身の今後のキャリアをどうするか,真剣に考えました。

 「このままAGFに留まっていても,スキルアップは見込めないだろう。それならばいっそ社外に出て,Webアプリケーションの開発に携わってみたい」。私はこう考え,AGFからJBSに転職していた元の上司の誘いを受け入れ,同社に入社しました。

 次回は,これまでの経験を生かしながら,新天地でのソリューション開発の仕事にどのように取り組んでいったかについてお話しします。

【根本美佐子氏の略歴】

日本工学院専門学校 情報処理課卒業。1980年,味の素ゼネラルフーヅ(AGF)入社,情報システム部に配属される。80~82年は基幹システムのデータ管理,運用業務を担当する。83~84年,ワードプロセッサ,パソコンの社内導入を進め,インストラクターとしてユーザー部門の教育にあたる。85~94年,IBM製メインフレームの業務アプリケーション(営業情報/販売手数料計算/販売販促費管理/人事給与/経営情報システム)を開発。86年に結婚,92年に長女を出産。96~2001年,ロータスノーツでのデータベース開発,アプリケーション管理ナレッジマネジメントなど情報の共有化を推進。ERPパッケージ・業務パッケージ評価/ソフトウェア機能評価。97~2000年1月,Y2k対応「システム内プロジェクトマネージャー」。2000~2001年,受注・物流系システムの,味の素へのアウトソーシング検討「タスクチーム事務局」。2001年,AGFを退社し,日本ビジネスシステムズに入社。ソリューション開発部マネジャーとして,営業情報/予算管理システムなどのWebアプリケーション開発,業務分析,プロジェクト管理などを担当。