小飼弾です。明けましておめでとうございます。

 ITpro編集部より、「Watcherが展望する2007年」というお題で記事を一本書けという依頼を頂いて、何をどう展望しようかと迷っていたのですが、2007年のベストセラーである「ウェブ進化論」の梅田望夫さんが、こんなことを言っていました。

My Life Between Silicon Valley and Japan - 「Wisdom of Crowds(群衆の叡智)」元年
「次の十年」の最重要キーワードは相変わらず「Wisdom of Crowds」なのだ。

図らずも、これは私が終始考えていたテーマともぶつかります。

人はいつ群れ、そしていつ群れないべきか。

2007年だけのテーマにするにはあまりに壮大な気がしますが、千里の道も一歩から、というわけで、無謀を承知であえてこの「人の群れ」ということをテーマとして取り上げることにします。

実はこの「群衆の叡智」というのは、去年話題となった「『みんなの意見』は案外正しい」を待つまでもなく、すでにルネサンスにマキャベリによって見いだされています。

404 Blog Not Found:「群衆の叡知」ではなく「叡智の群衆化」
群衆は、「何が正しいのか」という設問には苦手でも、「どちらが正しいか」という設問には案外的確な答えを出すものだ

詳しくは「マキアヴェッリ語録」を参照していただくとして、このマキャベリの知見は、民主主義の根幹を成す重要なものです。もし群衆が「どちらが正しい」かという設問に的確な答を出していなければ、今日のように民主主義が世界の多くの国で採用されることはなかったでしょう。

しかし、マキャベリの意見をもう一度よく見て下さい。群衆は、「何が正しい」のかという設問は苦手なのです。よって「どちらが正しいか」という設問は相変わらず誰かがまとめなければなりませんし、また「どちらが正しいか」という選択問題の中に、「正しい」答が一つもなければ、群衆であろうがなかろうが的確な答を出す事は不可能になります。

その典型が、イラク戦争だと思います。世界中から世界一の頭脳を集め、世界一の経済と軍事力を持つアメリカ合衆国が、なぜあれほどの愚行を行ったかということに、民主主義の一「ファン」として悩まずにはいられません。同国における去年の中間選挙を見ると、やっとかの国の人々もそれが愚行であったことに気がついたようですが、それでもそれを公に認めるだけの叡智にはまだ至っていないようです。仮にあったら去年の締めくくりにフセイン元大統領を処刑するということはなかったでしょう。

なぜ世界で一番豊かで強くて賢い群衆は、最も愚かな戦争に走ったのか。

逆説的ですが、それは彼らが9.11をきっかけに「群れて」しまったからです。

実は、「群衆の叡智」が発揮されるためには、「群衆」は群れてはいけないのです。

そのことは、Webを観察していても実感することが出来ます。

Rauru Blog ? Blog Archive -- 集合愚に落ちないためには
Collective Intelligence Dumbness of Crowds
amazon でそれぞれ書評を書く大勢の人たち 寄り集まって Wiki で一冊の本を書こうとする大勢の人たち
大勢の人がそれぞれ撮影して Flickr にポストした写真の全て 大勢でよってたかって一枚の写真を撮って編集しようとする人たち
人々からたくさんのアイデアを得ようとすること 大勢の人のアイデアの平均を取れば素晴らしいアイデアになると考えること
Threadlessで個々人のデザインしたTシャツについて議論すること Threadlessで実際に大勢でよってたかって一着のTシャツを作ろうとすること
つまり、単一のアウトプットを出そうとすると、それは必然的に Dumbness of Crowd -- 集合愚 になってしまう、っつう話ですな。ああそれはすげーわかる気がする。

「3人集まれば文殊の智慧、しかし3億人集まると世紀の愚行」というわけです。

 「群衆の叡智」は、あくまで群衆の中の人々が付和雷同しない時にはじめて発揮されるのです。ですから、"The Wisdom of Crowds"の正体は、"The Wisdom Not to Crowd"、すなわち「群れないという叡智」なのです。イラク戦争を始めたかの国が、GoogleやYouTubeを生み出した理由がまさにそこにあります。これらの起業は、連邦政府が国家プロジェクトとして発足させたわけではありません。好事家の若者たちが、好き勝手にはじめて、その好き勝手が大きくなるまで誰も咎めず放置されていたからです。日本においてこれらの好事家の若者たちが、誰も咎めずに放置しておいてもらえるでしょうか?

とはいえ、群れには群れのよさがあります。叡智と引き換えに強大な力が手に入るのです。イラク戦争は世紀の愚行ではありますが、かの国はそれで「負けた」わけではありません。強引ではありますが、とにもかくにも「イラクの独裁政権を倒す」という目的はあっさりと果たしたわけです。3億人がまとまると、ああいうことも出来てしまうわけです。

我々が小は家庭、中は会社、そして大は国家に至るまで、何らかの形で群れに所属する理由がそこにあります。我々が時に自説を曲げてまで組織の存続を優先してしまうのは、我々が叡智より力を優先している証拠かも知れません。「孤高の智者」であるよりも「勝ち組の一員」である方が安心なのです。

果たして「群れぬ智慧」と、「群れの力」というのは両立可能なものなのでしょうか?その問いの答が何であれ、それは一人一人が考えるべき問題なのでしょう。もし「みんなで考えよう」としたら、それはあまりに簡単に「集合愚」に陥ってしまいます。

しかし、その智慧を力に代えようとする時、ほとんどの場合において我々は群れる必要があるのです。智慧だけでは生きて行けぬ以上、我々は「ヒト」ではなく「人間」として行動しなければならない。いつまで一人で考え、そしていつ群れとなって行動するのか。一般論としては、人類永遠の課題でしょう。

しかし、Webに再び目を向けてみれば、「群れないまま属す」というかつては不可能に近いほど難しかった状況がいとも簡単に実現されています。Webが成し遂げた最大の成果が、この「群れないまま属す」という状態を可能にしたことだと私は考えています。

とはいえ、今のところはその恩恵を受けているのは梅田さんのいうところの「あちら側」、すなわちWebの社会に留まっており、「こちら側」、すなわち既存の社会はほとんど「スルー」されていますし、また「こちら側」はまだ「あちら側」で起きている変革に気がついているとはいえません。

今年が「Wisdom of Crowds(群衆の叡智)」元年となるかは、「こちら側」、すなわち「リアル」の世界にも「群れないまま属す」がもたらされるかどうかにかかっているように思います。すでに私自身は、その恩恵をリアルにおいてもいくばくか受けております。このITpro Watcherの連載自体もそうです。私は明らかにこのITpro Watcherに「群れずに属して」いるのですから。

読者のみなさんは、いかがでしょうか。そのような場をみなさんも得る事を祈りつつ、新年の挨拶とさせていただきます。今年もよろしくお願いします。

Dan the Man in the Crowd

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