自宅の窓に面した机に座り,パソコンの画面に向かっている。さて,今月のコラムは何から書き始めようか,と考えるのは楽しい時間だ。今週は大手生命保険会社の教育担当の方が営業についてインタビューに来た。このエピソードにしようか。いや,ここのところ営業話が多いので止めておこう。高田馬場の危険な本屋,芳林堂のことを書くことにする。

 ここは筆者の好みと品揃えが合っている本屋で,3階の文芸書フロアへ目的とする本を買いに行くと興味を引かれる本が何冊か眼に飛び込んでくる。結果,予定外の本まで買うはめになる。しかし,このついで買いの本がすばらしく面白いことがあるのだ。

 先週,浅田次郎の「中原の虹第二巻」を買いに行ったのだが,古いパリの写真を表紙にした本が気になった。「パリでひとりぼっち」(鹿島茂著,講談社)だ。文体も自分の好みに合っているのでついで買いした。20世紀の初頭,パリの国立中学に留学していた日本の少年が理由あって放校になり,寄宿舎を無一文で追い出される。それから大使館に保護されるまでの9日間,パリの最底辺に生きる人たちの中で過ごしたサバイバル生活が340ページにわたって語られている。スリルがあり,テンポがいい。少年や彼がかかわる人たちのたくましく生きる姿が好ましい。まるで見ながら書いたように,1世紀前のパリのどこかミステリアスな街や風俗が細密に描かれていて好奇心をそそられる。

 ふだん技術的なドキュメントばかり読んでいる方,任天堂DSで反射神経(思考力ではない)を鍛えるより,たまには文芸書の中に沈んで想像力を鍛えてはどうだろう。  さて,今回はネットワークやシステムを設計する上で必要なベーシックな力とディテールな力について述べたい。

大切で,忘れがちな基本

 某日,数百拠点規模のネットワークの基本設計レビューを行った。今,筆者が注力している「ネットワーク・リストラ」は脱・専用線,脱・ブランド,差別化ルーティングがその特徴だ。専用線は使わずコンシューマ向けのブロードバンド回線で済ませる。専用線(多くの場合広域イーサネット)を使う拠点でもブロードバンド回線を併用し,専用線にはトラフィックは少ないが信頼性を要求される基幹系システムのトラフィックを流し,情報系やインターネットのトラフィックはブロードバンド回線を流れるように「差別化ルーティング」する。専用線はごく細いもので済ませられるので経済的だ。大部分の拠点のネットワーク機器はノン・ブランドで安価だが品質のいい製品を使用する。

 ネットワーク・リストラは設計者にとってやりがいのある仕事だ。なぜなら,一時期流行ったIP-VPNのようにスタティックでデフォルトゲートウェイさえ切っておけば終わり,といった単純なものではなく,広域イーサネットとブロードバンド回線を併用した差別化ルーティング,VRRPによる拠点機器の二重化など,工夫の余地が大きいからだ。設計レビューもしがいがあるということだ。

 筆者がレビューでする質問は「どこが問題になりそうなの?」で始まる。設計のリーダーはこう答えた。「約150拠点で広域イーサネットとブロードバンド回線を併用し,それぞれ別のルーターに収容します。広域イーサネットを収容するルーターではOSPF(ルーティング・プロトコルの一種)を使うのですが,ルーターの性能的な制約があるため隣接ルーター(同じネットワークに属するルーター)の数を絞らなければいけません。そのため,広域イーサネットを多数のVLANに分割しています。複雑になり過ぎているのが問題です」。

 これはディテールの問題ではなく,ベーシックな問題だ。「どうしてOSPFを使うの? OSPFは重要な区間での障害時の迂回を短時間で実行したり,複数の回線にトラフィックを負荷分散させるのには適しているけど,一般の拠点はRIPで十分じゃないの?」と質問した。OSPFはRIPより高度なルーティング・プロトコルなので,それを使いたい気持ちはわかる。だが大事なのは「目的に対して最適な手段を選択する」ことだ。目的に対してオーバースペックな手段だと,当然ながら無理が生じてくる。 

 設計メンバーは筆者よりはるかに技術力があり,ディテールを知っている。しかし,ディテールに強い人がベーシックに強いとは限らない。技術力のある人はいきなり詳細で部分的な検討に入りがちで,基本を置き去りにすることがある。

 ネットワークの仕事には企画・提案,基本設計,詳細設計・テスト,インストール・工事,保守・運用,そして全体を見るプロジェクト管理という階層がある。この中で企画・提案,基本設計とプロジェクト管理ではベーシックな力が重要だ。

 ベーシックな力とは目的を明確に理解し目的と手段を取り違えるといった致命的なエラーをしないこと,多様な技術の基本をよく理解し目的に対して最適な技術が選択できること,重箱の隅のような細部は気にせず全体としてバランスの取れた設計かどうか判断できること,だ。

 上述のレビューでは再検討した結果,一般拠点ではRIPを採用することになった。データセンターと通信センター間ではOSPFが採用された。これにより一般拠点のルーターは負荷が軽減され,広域イーサネットのVLANによる分割が不要になってネットワークがシンプルになった。  

ディテールがないと動かない

 詳細設計以降のフェーズではディテールが大事になる。なんと言っても筆者のようにベーシックしか知らない人間にネットワークを動かすことは出来ない。基本設計した仕様をネットワーク機器の特徴を踏まえて実装するため詳細化したり,コンフィグを作成するのはディテールを知らなければ出来ない。

 ネットワーク構築(システム開発でも同様)ではベーシックな力とディテールな力の両方が必要だ。さて,あなたはどちらで勝負するのだろう? ベーシックもディテールも強いのが理想なのだが,両方とも強い人材はなかなか見つからない。基本を幅広く知って技術や製品の選択や組み合わせを考える才能と,技術や製品を深く知って動かす才能とは種類が違うように思う。「好きこそものの上手なれ」という。ベーシックで勝負するか,ディテールで勝負するか。それはその人の好みで決めるのが一番だ。 

 ただ一つだけ,いつも繰り返し言っていることをまた言っておく。特定の技術に深入りするのはいいが,特定のベンダー製品でしか考えられなくなったのでは「選択」という設計者にとって一番大事なことが出来ない「ベンダーの奴隷」になる。ディテールを追求しても,奴隷になるのは避けたいものだ。ちなみに,筆者のところの設計チームはどんなベンダーの機器でもオープンな技術だけで使いこなす。

VSで勝負するNET&COM2007

 来年2月に開催されるNET&COM2007の講演依頼を頂いた。2000年以来,連続8年講演することになる。ありがたく,名誉なことだと思う。これも毎年たくさんの方が聴講に来てくれるおかげだ。テーマは決めた。「5つの『VS』で考えるNGN時代の企業ネットワーク」だ。

 企業ネットワークは大きな転換点を迎えた。ここ10年,企業ネットワークの目玉は「どんな新技術を使うか」で決まった。筆者が2001年に全国規模で構築した「ルーターレス・ネットワーク」では「広域イーサネット」,2002年の東京ガス・IP電話では「IPセントレックス」,現在のネットワーク・リストラでは「ブロードバンド回線と差別化ルーティング」が目玉だ。

 しかし,これからの企業ネットワークの目玉は「何を実現するか」,「どう実現するか」で決まる。目新しい技術やサービスを採用することがそのまま目玉になる時代は終わったのだ。何をどう実現するかは各企業の目的・要件・価値観で変わり,一様ではない。たくさんある選択肢から,企業が主体的に選ぶことでそのネットワークの目玉が決まる。

 NET&COM2007講演「5つの『VS』で考えるNGN時代の企業ネットワーク」では主要な選択肢を対比(VS)させ,これからの企業ネットワークをどう企画・設計すべきかヒントとなる話をしたい。五つのVSとは「専用線VSブロードバンド回線」,「ユニファイド・コミュニケーションVSセパレート・コミュニケーション」,「IP電話の集中制御VS自律分散制御」,「ネットワーク・コンピューティングVSローカル・コンピューティング」,「レガシーvsNGN」だ。イントロではいつもどおり,「企業ネットワークの動向」について話す。