初回に,建築家の中村好文氏の「どんな家が欲しいのか,依頼者には分からない」という言葉をご紹介したが,今回も建築の話題をひとつ。

 幅広い音楽ジャンルで活動しレコーディング・スタジオの設計・建設でも活躍されているミキシング・エンジニアの赤川新一氏がこんなことを言っていた。

 「優れた建築家ほど,現場での変更が多い」

 駄目な建築家は,当初の設計どおりに作ろうとする。しかし,ものづくりでは,設計の段階でユーザーの要求を漏れなく盛り込めるわけではない。優れた建築家は,どれくらいの要求が漏れているのかだいたい分かっていて,それを前提に行動する。工事が始まってから新たな事実が発覚したときに,ためらうことなく,効率的に変更ができるのが優れた建築家である。

 レコーディング・スタジオのような難しい建築工事になると,初期のユーザー要求は明確になっていてもそれを実現する方法が十分に見えていない状態での着工になることが多いという。それに,音響設計の知識を持った大工などいるわけがない。音を出してみてうまくいくこともあれば,「これはまずい」と頭を抱えてしまうこともある。いきおい,「現場での変更」が不可避になってくる。

 この話をシステム構築に置き換えると,要求定義プロセスが終わっても実はまだかなりのあいまいさが残っていて,設計・開発段階にはいってからでないと分からない変更要素が不可避的に存在する,というのだから困った話である。「漏れのない要求定義をやりましょう」という目標設定に水をかけるような話でもある。しかし,真に漏れのない要求定義ができることなど考えにくいわけであるし,ここはひとつ素直に「要求定義ではかなりの漏れが生じる」という事実を素直に受け容れた方が賢いアプローチなのかもしれない。

 レコーディング・スタジオ建設の話の戻すと,「現場での変更」を誘引する要素が何であるかはだいたい分かってきているのだという。その一は,遮音性能の問題,その二は,壁面反射特性の問題だそうだ。何が問題になるかは分かっていても,どんな素材,どんな角度,どんな硬さ・柔らかさがいいかは決められないので,さまざまな素材を借りる手配しておき,また試行錯誤のための日程を確保しておいて,現場でさまざまな試みをやってみてはじめて決定できる。

 要求仕様が確定していなくても「何が確定できていないか」,現場でそれを決めるのに「どれくらい時間と工数がかかるか」が分かっていることは非常に重要である。これが全日程に組み込まれていれば,『予算オーバーや遅延は生じない』からである。つまり,優れた建築家は単に「現場での変更が多い」のではなく,それを見越した工程管理ができているということらしい。

 システム構築の遅延理由の最大のものは,あいまいさを残した要求仕様にもとずく設計・開発が行われることである。確認事項が多くて設計作業がはかどらないために,下流工程で遅延が蓄積されてしまう。あいまいさが残った要求仕様をもって次の設計・開発工程に入ってゆくという前提であれば,積み残しによって生じる下流工程での工数をあらかじめ算定し,発注側・受注側双方合意した上で次の工程に進むというやり方を取るこ方が賢明かつ計画的ではないかと思う。