10月2日に出版する予定の書籍「本当に使える要求定義」がゲラの段階に入った。もう一息である。ほぼ予定文字数に収めたつもりなのに,ページ数が増えてしまったらしい。原因は図版の数が多く,しかも大きいからだと編集者に言われた…。

 というわけで,今になって書き足したいことが出てきてももう書けないのだが,実は書きたいエピソードを一つ思い出してしまった。編集者がブログを用意するというので,この場に書こうと思う。私がシステム開発の要求定義で普段思っていることをズバリ言い表した,ある建築家の話である。

 建築家にもいろいろあって,ニュースになるような大物の建築を手がける人もいれば,ごくごく小規模の建物を中心に引き受ける人もいる。中村好文氏は後者の典型だ。彼のオフィスは専ら廉価な個人住宅を引き受ける。私が要求定義本の構想を練っていた頃,その中村氏がテレビ番組(2006年4月13日,NHK)でこんなことを言っていた。

 「どんな家が欲しいのか,依頼者には分からない」

 う~ん,そうだったのか。どこも同じだなあ。システム開発でも,建築でも,依頼者は発注するもののイメージを具体的に持っているわけではないのだ。

 では,中村氏はどうやって依頼者の欲しい家を探り出すのだろう。番組の中では,こんな話が紹介されていた。ある一家がやって来て「土地はあるので,そこに家を建てたい」と言う。中村氏は,デザインや間取り,機能についは何も聞かないで,その一家の生活の様子や家庭でのエピソード,大切にしている考え方や好きなことを聞いたり,現地に足を運んで風景を眺めたりしている。

 やがて,約束をした日に行われたプレゼンテーションが終わると,その家族は「私たちの家が見つかった」と喜んで帰っていった。あー,うらやましい,うらやましい。一度でいいからそんなプレゼンテーションをしてみたい。

 実は,今から18年前,私もこれと似たようなことを経験した。以前住んでいた小さなマンションを全面リフォームしたときのことだ。ある個人でやっているF建装にお願いしたのだが,社長の鮎沢さんにこんなことを言われた。

 「本や雑誌を見ていて,ご家族の皆さんがいいなぁと思った家や家具,生活風景の写真をできるだけたくさん集めてスクラップ・ブックにしてください」

 そのスクラップ・ブックを手渡してから1カ月半後,鮎沢さんは詳細に引かれた図面とスケッチ,金具1個までブレークダウンした積算見積もりを持って現れた。説明を聞くうちに「これ以上のものは考えつかない」と確信するようになり,工事を発注した。諸般の事情により10年後に住み替えることにはなったが,それは今でも忘れられない私たちにフィットしたすてきな家で,思い出すと胸が痛くなる。

 こういう人たちの仕事は,住宅業界の中でも例外の中の例外かもしれないが,仕事を終えた後の依頼者の満足度の高さは全く普通ではない。そんな家の建てかたは例外の中の例外だと割り切って,もっと普通の建売住宅や建築条件付でよしとするのか,やっぱり上を目指すのか。

 そのようなアプローチはしょせん個人レベルの職人芸でしかないのか。今やっている自分の仕事にあてはめて考えると,心は千々に乱れるのである。