1972年10月,マイクロプロセッサ8080の開発に向けて11月初旬の渡米が決まった。2人分の航空券が米Intelから送られてきた。同封されたNoyce博士からの手紙には「何も持たずに渡米しなさい」と書いてあった。

 だが困ったことに,当時は結婚して間もないこともあり,日本円で1カ月の給料分程度のお金しか残っていなかった。ドルにすれば雀の涙にもならない。このころの日本の給与水準は,米国の6分の1以下であった。仕方なく,Intelに500ドルの送金を依頼した。

 お金ができると,また悪い虫が起きて,ついでにハワイに寄って行こうということになった。このころは既にジャンボ機(ボーイング747)が就航しており,広い機内にゆったりした座席が設けられていて,空の旅は快適であった。しかし,ハワイまでの飛行機は新婚旅行のチャーター機のようだった。

 サンフランシスコ国際空港に着くと,台湾から移民した中国人技術者のY. Feng氏が迎えに来て,手配したアパートに連れて行ってくれた。Feng氏は,台湾の高校を卒業後にアメリカの大学で学位をとり,情熱を持って仕事に取り組む大変まじめな開発技術者であった。彼はLSI開発やビジネスにだけでなく,教会の仕事にも情熱を持って取り組んでいた。

 当時,アメリカ人は開発部長などから事業部長に直接なれた。しかし,彼はアメリカ人でないというハンディキャップがあったからだろうか,事業部長になるために,開発部門から,生産部門,マーケティング部門へと移動していった。

 アパートは,Noyce博士の秘書であるJean Jones氏が用意を整えていてくれた。彼女は,プロセッサの歴史などを展示するインテル・ミュージアム設立に貢献した立派な女性である。部屋に入ると,何も用意して来なくてもよいという意味が分かった。家具,寝具,調理器具,食器など,すべてがそろっていた。

 アパートは,会社から3マイルほど離れた同じサンタクララ市にあり,エル・カミノ・リアルとロウレンス・エクスプレスの交差点近くに位置していた。14畳ほどの解放感のあるリビング・ルームがある,1LDKの子供がいない夫婦専用のアパートだった。プールもあり,日曜日にはよく泳いだものである。アパートの近くには,食料品を主に取り扱っているアルファ・ベータ,衣料品も扱っているKマート,ファミリー・レストラン,小売店などがあった。生活しやすい場所だった。


写真1 8080開発中の筆者

 会社に行くと,すべてが新しかった。サンタクララ市のセントラル・エクスプレスとバワーズ通りの交差点に建てられた本社は,完成してまだ半年もたっていなかった。1階の中央にウェーハ工場(ファブ)があり,その周りにプロセス関係の技術者のオフィスやマーケティング,ファイナンス関係のオフィスがあった。2階は,LSI開発部門,実験室,品質管理やプロセス開発部門のオフィスとして使われていた。

 インテルのイメージは昔とかなり変わり,普通の会社らしくなっていた。教育にも力をいれており,半導体技術などを教えていた。後にインテル・ユニバーシティと呼ばれるようになったものである。私も8080開発直後に受けたが,半導体プロセスに特化していて,何も面白くなかった。

 最先端の半導体プロセスを“プロのプロ”がプロになろうとしている技術者に教えるので,内容自身が難しく,しかも英語で教えるのである。できなくて当たり前である。「こんな易しいことが分からなくて,どうして8080が開発できたのか」とよく言われた。半導体プロセスをブラックボックス化し,半導体プロセスをいかに使うべきかを考えている私には,必要な教育ではなかった。この当時,半導体プロセスは既にコンピュータを使って正確にモデル化されていた。重要なことは,使用可能な半導体プロセスの特性を把握し,コンピュータを使ってどのような製品(8ビット・マイクロプロセッサ)をどのように設計(論理,回路,レイアウト)するかであった。

 このほか,LSI設計用にDEC製のコンピュータDEC-10が設置されていたのも目を引いた。ただし,端末機はオフィスではなく,コンピュータ・ルーム脇の部屋に置かれていた。コンピュータ・ルームからレイアウトの指示を出したりした変な技術者となった。

 私に用意された部屋は個室だった。部屋に入ると,さっそくNoyce博士に呼ばれた。お金がないので前借りをして1年で返すことにした。車が必要だということで,Noyce博士はマウンテンビューのカストロストリートにあるウェルスファーゴ・バンクに電話してくれた。銀行に行くと,Noyce博士の保証だから,いくらでも貸すという。頭金なしで,1965年製の中古のビュイック・リビエラを購入した。

 この車は鉄そのものでできていたせいか,非常に頑丈だった。妻が妊娠しているときにあわてて病院に駆けつけ,誤ってコンクリートの壁にぶつけてしまった。自動車はかすり傷だったが,コンクリートの壁は崩れてしまった。

 このころのIntelでは,主な製品がメモリーだったため,製品計画書はA4用紙1枚に書くことになっていた。私はA3で作成したものをA4サイズに縮小して提出していた。また,論理設計をするときには大量の論理図や書類を作る必要があったため,机をL字型に配置し,論理シミュレーション前に論理図などを広げて論理式の確認を行えるようにした。なるべく,狭い面積に多くの情報を並べるために,変に思われたが,拡大縮小ができるコピー機を購入してもらった。日本では,まだジアゾ式湿式複写機(いわゆる青焼き)の時代であった。