開発で2打席連続ホームランを打つのは本当に難しい。私が関係したプロセッサの開発を少し振り返ってみるだけでもそのことがよく分かる。

 1968年4月にビジコンで開始したプリンタ電卓の開発において,私はプログラムを使って機能を実現する「プログラム論理方式」を導入した。それまでのハード・ワイヤード論理方式からソフトウエアによる制御方式に変更することで,OEM先ごとに仕様の異なる電卓を短期間で開発できるようにしたのである。既存の方式のインクリメンタルな改善ではなく,新世代の論理方式であったと言えると思う。

 ところが,1969年にビジコンが米Intelに共同開発を申し入れた際,ビジコンが提案したのはプログラム論理方式へのインクリメンタルな改良とそのLSI化だけであった。

 これに対して,IntelのMarcian Ted Hoff博士は,マクロ命令をマイクロ命令で実現するという,一歩踏み込んだ創造的な案を出してきた。10進演算など電卓向けのマクロ命令を,より低レベルなマイクロ命令(私の提案書にはμInstructionと記されており,Intelはマイクロ命令と名付けた)の組み合わせによって実現しようというのである。

 電卓にマクロ命令によるソフトウエア制御を導入したのは私自身なので,このマイクロプログラム論理方式と名付けた論理方式が,自然の流れであり,さらに進んだ次世代のプログラム論理方式であることがよく分かった。このときに開発したLSIは,後に4ビットマイクロプロセッサ4004として販売され,大成功を収めることになる。私は創造的なアイディアを出すという点で2本目のホームランを打ちそこなったのである。

 もっとも,4004で成功したIntelも,次のプロジェクトである8ビット・マイクロプロセッサ8008の開発でつまずいた。その原因は,応用を知ることと,顧客からの真の要求がいかに大切であるかをよく認識していなかったことにある。

 1971~1972年ころは,メモリーのセールスマンを雇うのは難しい,マイクロプロセッサのセールスマンを雇うのは不可能だ,などと言われていた。マイクロプロセッサの応用技術者を雇うことも難しく,Intelは米国における4004の市場を,リレーの置き換えや交通信号制御などの分野に限定してしまった。マイクロプロセッサが電卓に応用可能であれば,キャッシュ・レジスタや伝票発行機などの低速オフィス機器にも応用できることは明らかであった。実際,Intelの日本支社では,顧客と協力してキャッシュ・レジスタの市場に参入していった。しかし,Intel本社にはシステムに関する応用技術者がいなかったのである。

 Intelは,第一世代の8ビット・マイクロプロセッサである8008の開発において,キャラクタ処理だけを考慮した命令セットを採用し,プロセッサ内部のハードウエアも4ビットから8ビットへの変更に終始した。そのために,システム・ユーザーを満足させるような機能も性能も提供できず,結果として連続ホームランを打てなかった。

 一方私は,4004を開発したときの経験を大いに役立てながら開発を進めた。結果として,8008を大改良した8080,さらに8080を大改良したZ80の開発と,2本のホームランを連続して打つことができたと思う。

 開発の際には,「応用分野からの要求は発明の母」「初めに応用ありき,応用がすべて」を肝に銘じておく必要がある。プロセッサの開発では,システム・ユーザーが考えている一歩先を行かないと成功しない。ただし,二歩先を行くと失敗してしまう。成功のためにはシステムに注力した創造的開発を行うことがいかに重要かが分かる。