創造的開発における基本は,「人の歩んだ道を行かない」ことである。現状に執着してもいけない。今までに培った技術やノウハウは,役に立たないと考えるのが原則だ。

 1970年代には,次世代マイクロプロセッサの開発には常に次世代の半導体プロセスが使われた。正孔(ホール)を使ったPチャネルMOSトランジスタ(Intel 4004)から始まり,電子を利用した高しきい値NチャネルMOSトランジスタ(Intel 8080),低しきい値NチャネルMOSトランジスタ(Motolora 6800),イオン注入技術を使ったディプリーション負荷型NチャネルMOSトランジスタ(ZiLog Z80),ショート・チャンネルHMOSトランジスタ(Intel 8086),と進化したのである。そのため,前世代の半導体プロセスに基づいて考案した開発方法,設計手法,論理や回路そのものが陳腐化してしまうことが多かった。昨日まで信じられていたことが,今日は全く信じられない,というケースも珍しくなかった。

 日本は,1960年代から1970年代にかけての20年間で半導体技術を確立したおかげで,一時的にメモリーとファウンドリー・ビジネスで成功した。しかし,半導体技術を使った応用製品に関しては米国製品の模倣に終始してしまった。結果,韓国と台湾の進出によって,創造的開発による新製品を持たない日本の半導体業界は壊滅的な打撃を受けることとなった。

 一方米国では,当時からシステム・ビジネスの上流における製品や技術を創造的に開発し続けてきた。マイクロプロセッサ,オペレ−ティング・システム,プログラミング言語,VHDL(VHSIC Hardware Description Language)などのハードウエア記述言語,SystemCなどのシステム記述言語,CADやパソコン用アプリケ−ション・ソフトウエア---。例を挙げればきりがないほどだ。

 米国が創造的開発において優位に立てた根底には,米国の開発技術者に宿る起業家精神と開拓者魂がある。創造的で挑戦的なプロジェクトに参加し,ストック・オプションを行使して莫大なお金を手に入れる。そのお金で新たな会社を起こし,世の中にいまだ存在しない製品を開発し,株を上場し,巨万の富を築く。これが米国における開発技術者の夢である。その夢へ駆り立てているのが,国籍にかかわらず,米国で働く開発技術者の心の底に流れているアメリカ建国以来の開拓者魂だ。

 私が米国で開発をしていた1970年代は,Intelに在籍する開発技術者の半分以上が移民だった。米国という新天地で,移民は挑戦的かつ精力的に仕事をしていた。マイクロプロセッサの開発が終了すると,その製品を多くのユーザーに広めるためにマーケティング部門への移籍を希望したり,自分でビジネスを展開するために事業部長への昇格を望んだり,そのマイクロプロセッサを使って新会社を設立したりする開発技術者も多かった。会社の命令でマイクロプロセッサを開発するのではなく,あたかも,自分の会社で新製品を開発するように,熱意を持ってプロジェクトに参加していた。

 常に自分のキャリアパスを考えるのも,米国における開発技術者の特徴の一つだ。実力のある開発技術者であれば,会社を変わることによって給料が少なくとも20%は上る。このおかげで開発技術者に流動性が生じ,それがまた米国の強さの一つともなっている。あたかも,シリコンバレー株式会社Intel事業部マイクロプロセッサ開発部といった感があった。さらに,大きなプロジェクトを統括するマネージャやデパートメント・マネージャであれば,部下として人事と経理の要員が配属された。マネージャは,技術者の採用,給料,ベネフィット,昇給といった人事権のほかに,コンピュータなどの共通開発機器の使用に関しても大きな権限を持っていた。

 ある日,4004のマスク原図をチェックするために専用の部屋に入って行くと,Intelの創業者の一人であるRobert N. Noyce博士がいた。博士はライトテーブル上に世界最初のDRAMである1103のマスク原図を置いてチェックをしていた。彼の脇を見ると,たばこが2,3箱重ねて置いてあり,部屋中たばこの煙でモウモウとしていた。会社創立時には,ICの神様でもマスクのチェックをするのかと大いに感心した。

 後年,私が8080のレイアウトやマスクの原図をチェックしていると,原図をカットする女性のオペレータに「Intelには2人の悪人がいる。お前とNoyceだ」と言われた。2人ともたばこを喫いながらマスク原図をチェックするため,たばこの灰を落としてしまうとルビー色をした薄いフィルムが焦げてしまい,彼女たちが修正しなければならなかったからである。焦げ目1つにチョコレート1箱の罰金であった。今思えばのんびりした時代であった。