このところ,インターネットで「オープンソース的」という言葉を巡る議論が交わされていた。この言葉に関する議論が,オープンソースの当事者,第一人者によってネットで展開されていく様は,記者自身の思い込みを正し,理解を深めさせてくれたとても印象深いものだった。

オープンソースは無料ではない

 きっかけは,梅田望夫氏のブログのエントリだったと思う。梅田氏が近著「シリコンバレーから将棋を観る」を自由に翻訳してよいと宣言したところ,大学生の薬師寺翔太氏をリーダーとするボランティアの英訳プロジェクトが発足。10人のメンバーにより300ページの著書が実質5日間で英訳された(関連記事:梅田望夫氏の本「英訳プロジェクト」リーダーに聞いた成功のツボ)。現在,フランス語やイタリア語など,さまざまな言語への翻訳プロジェクトも立ち上がっている。この出来事に感銘を受けた梅田氏は,「オープンソース的協力が成立する要件についての実験と考察」というブログのエントリを書いた。

 このエントリに対し,フランスのIT企業NexediでオープンソースERP「ERP5」の開発に従事している塩崎量彦(かずひこ)氏から批判があった。オープンソース・ソフトウエアは必ずしも無料ではなく,ビジネスの手法としてオープンソースを選択し成功しているケースはたくさんある。また,品質が低いものではないという指摘だ。

 実は,これらの指摘を読んで記者はどきっとした。記者もオープンソース・ソフトウエアを紹介する際に「無償公開」や「無償で使える」など,「無償」を強調した記事を何本も書いたことがある。

 塩崎氏の指摘は確かにその通りだ。オープンソース・ソフトウエアのライセンスは,ソフトウエアを売ることを禁じてはいない。ただライセンスでは再配布が自由なので,実際にはソフトウエアだけを有料で販売することはほとんどなく,販売する際にはサポート・サービスやハードウエアなどと組み合わせていることが多い。そのようなビジネスモデルで収益を上げている企業もたくさんある。

 オープンソース・ソフトウエアの完成度が必ずしも低くないという指摘も正しい。特にオープンソース・ソフトウエアという言葉がまだ存在しない時代に普及したGNU gccなどは,価格よりもむしろその性能や完成度がメーカー製のOSに付属していたソフトウエアに凌駕していたがゆえに広く使われるようになったのだと思う。

 けれども,開発の初期段階で公開されるオープンソース・ソフトウエアが多いことも事実だ。その中で成功したプロジェクトはユーザーと開発協力者を得て,高い品質のソフトウエアへと育っていく。

オープンソースは必ずしも不特定多数による共同開発ではない

 まつもとゆきひろ氏からは,「オープンソース的ではなく,Wiki的と呼ぶべきではないか」との指摘があった。オープンソース・ソフトウエアは多数の技術者の協力(バザール・モデル)により作られているものだけではないからだ。

 個人や少数のグループにより作られているものも多い。企業が作って公開しているものもある。商用ライセンスとのデュアル・ライセンスで提供されるソフトの場合,企業がすべての著作権を持ち続けるため,社外からの指摘は受け入れるものの,プログラム自体はすべて社内で開発している場合も多い。ただしその場合でも,ソースコードは公開されているので,それを改変して再配布することは可能だ。

 実は記者も昨年,島根大学で講義をした際「ネット上での不特定多数のコラボレーションによって新しい価値が生まれる,あるいは他の人に対して改変を許す形で作ったものを公開するという,オープンソース的なあり方は,ハードウエアなど,ソフトウエア以外のものづくりにも広まっていくのではないか」と話した。昨年の講義の内容はITproに書いたが,今年の5月にも同じような話をした。

 また「ネット上での不特定多数のコラボレーション」がオープンソースの唯一の開発形態に見えるような表現になってしまったのは,Linuxなど最も成功しているオープンソース・ソフトウエアの代表とされるソフトウエアがバザール・モデルにより開発されているためだ。ただし別のモデルもあることに触れずに議論を進めてしまったのは確かに正確ではなかった。できれば何らかの方法で講義を聞かれた方々に補足したいと思う。

 不特定多数の協業によるものづくりをテーマとした著書「ウィキノミクス」では,マス・コラボレーションと呼んでいる。ただ,一般に説明するにはオープンソースという言葉は圧倒的にわかりやすく,その成功ゆえに訴求力も高い。どういう言葉を使うべきか,正直,記者は悩んでいる。