2008年がスタートして10日。長い休みが明けたばかりで,なかなか仕事のカンが取り戻せないという読者の皆さんもいらっしゃるだろう。そこで今日はあまり堅い話をしないで,筆者がニセコでふと考えたエネルギー問題についてのひとりごとにお付き合いいただこうと思う。

 私事ながらここ数年,お正月明けの数日間をスキー場で過ごすことにしている。昨年と今年はニセコ(北海道倶知安町)に滞在した。なぜニセコかと言えば,雪質がいいのはもちろん,山のスケールが大きく,滑走距離が長いからである。

 筆者のスタイルは華麗なゲレンデスキーにはほど遠い。ゴンドラとリフトを乗り継いで山頂にたどり着き,ひとしきり眺望を楽しんだ後,一気にふもとまで滑走するというものである。途中で小休止したり,仲間とたむろすることなく,ぜいぜいと息を切らしながらふもとのゴンドラ乗り場に滑り込む。

 もちろん最初からこんな体育会系スキーをやっていたわけではない。若かりし頃はお金もないので,東京から新潟や長野のスキー場に1泊3日(1泊は車中泊)で出かけ,ちまちまとしたゲレンデスキーに興じていた。

 時は80年代後半から90年代はじめ。「極楽スキー」なるあんちょこ本が世に出回り,スキーが一つのファッションになっていた時代である。1987年にホイチョイ・プロダクションが製作した原田知世主演の映画「私をスキーに連れてって」がブームに火を付けたと言われる。若者はこぞってスキー場に出かけ,ゲレンデは大混雑。リフト乗り場には順番待ちの人の波が放射状にどこまでも広がり,リフト1本に乗るのに40分以上かかったこともある。スキー場から都心に戻る道路渋滞も半端ではなかった。

 「人の少ないゲレンデ」「待たずに乗れるリフト」「渋滞のない往復路」はないのか。答えの一つは海外だった。はじめてカナダのサンシャイン・ビレッジのスキー場で滑った時はスケールの大きさに圧倒された。ゴンドラをいくつも乗り継ぎ,山頂にたどりつくと壮大な景観が眼下に広がる。そこから3kmもの長いダウンヒルを一気に滑り降りる醍醐味は,日本の狭いゲレンデではとても味わえるものではない。すっかり海外スキーにやみつきになった筆者は春から秋まで節制生活を送ってせっせとお金をため,ウィスラー(カナダ),ツェルマット(スイス),バルディーゼル(フランス),メスベン(ニュージーランド)などに出没した。

 それから10数年。子育てなどですっかりゲレンデから遠のいている間に,日本のスキー事情はすっかり変わってしまったらしい。レジャー白書2007によると,長い不況でスキー場の利用者数はピーク時の半分程度にまで落ち込み,特に若年層のスキー離れに歯止めがかからない状況という。このため各地で小規模なスキー場が廃業や休業に追い込まれているようだ。

 こうした中,ニセコのスキー場は現在も活況を呈している。なぜかと言えば,オーストラリアからのスキー客が大挙して押し寄せているからだ。

海外マネーがニセコに流れ込む

 昨年,ニセコを訪れた時も確かに「外人がたくさんいるなあ」と思った。だが今年のニセコ・ひらふのゲレンデはさらにすごかった。右を見ても左を見ても,外人,外人…。体格の大きな白人のスキーヤーがこれでもかと視界に入ってくる。

 それもそのはず,2006年度の倶知安町の外国人観光客の宿泊延べ人数は9万1500人と,4年前の12倍に急増し,そのほとんどがオーストラリア人という。宿泊客数全体に対する外国人の比率も2割を超えた。同地区では豪州資本によるオーストラリア人向け別荘の建設ラッシュも続いている。分譲価格は4000万~5000万円台と決して安くはない。

 昨年夏には札幌の不動産業者が,欧米やアジアの富裕層向けに1棟1億~5億円の超高級コンドミニアムの販売を始めた。また9月には,香港のデベロッパーが,豪州系のデベロッパーを買収し,ニセコ東部の花園地区を国際的な高級リゾートとして再開発すると発表した。奇しくもその翌日発表された全国基準地価で,ニセコのある倶知安町は住宅地の地価上昇率が全国1位になった。過熱気味と言えなくもないニセコ開発ブームだが,周辺地域の観光産業を復興させ,新たな雇用を生み出すことに一役買っていることは確かだ。

 筆者が気になったのは,オーストラリア人のスキーヤーに,裕福そうな家族連れだけでなく,若者のグループが結構多かったことだ。それに比べて日本のスキーヤーは,小学生や幼児を連れた家族やスキースクールに入っている地元の小学生が目立った。このギャップを見て,思わずつぶやいてしまった。「日本の若者はどこに行った?」

ニセコアンヌプリの山頂付近から見た羊蹄山(蝦夷富士)