時間を守れなかった話

 後輩と話すと疲れるのは,後輩が締め切りにいい加減だからか。そうではない。締め切り厳守についても,後輩をあまり怒れない。

 週末に「来週月曜の午前に原稿を出します」と後輩から言われ,月曜の9時ごろからパソコンの前に座って待っていると13時頃になって原稿が送られてくる。筆者はかなり短気なので,「午前中という日本語を知らないのか」「時計が狂っているなら即直せ」「原稿はメールで送りつけず,印刷して本人が持って来い」と心の中で罵倒するが,相手は目の前にいないし,怒りのメールを送る暇もないので,急いで原稿を読み出す。だが頭にきているため,なかなか原稿を読み通せない。

 こういう時,自分自身が昔やらかした失敗を思い起こし,後輩に対する怒りを冷ますようにしている。記者になった1年目か2年目のある土曜日のことであった。遅れていた原稿をオフィスでようやく書き上げ,待機していたデスクに提出した(22年前は週休二日制ではなかった)。たまたまその土曜の夜,大学時代の友人達と酒を飲む会があった。筆者の原稿を読んでいるデスクに「あのう,ちょっと野暮用があり,しばらく外出します」と伝えると,デスクは「この状況で出かけるなんてよく言えるなあ」という顔をしていたが,「必ず電話をくれ」とだけ言った。新宿のロシア料理屋で開かれた会合に出席し,それなりにウォッカを飲み,次に気が付いた時はなぜか地下鉄のプラットフォームの椅子に座っており,時計を見ると夜の12時を過ぎつつあった。地下鉄を待っているうちに寝てしまったらしい。

 なんとか事務所まで戻ったものの,デスクは当然おらず,修正指示が赤字で書き込まれた原稿の束が筆者の机の上に置かれていた。原稿の束の上にさらに別の紙が載っており,そこには同じく赤字で「土曜の夜まったく連絡してこないのは記者としてサイテーの行為としれ」と大書してあった。この紙は捨てずに,ずっと持っていたはずである。ただし,スキャナーで読みとって本欄で公開しようと思い立ち,引き出しや手紙入れを探したが見当たらなかった。

愚痴が嫌いな訳

 そろそろ後輩の何に疲れるかについて書く。ここまで読まれた読者の皆様はもう少し我慢して読み進んで頂きたい。疲れるのは「愚痴」に接した時である。愚痴っぽい後輩が大勢いると言うわけではない。筆者が言う愚痴とは,生産的ではない発言をすべて含んでいる。

 典型例の一つは,「私は××ですから」という言い方である。それは愚痴ではなかろうと思う読者がいるかもしれないが,自分の限界とか領域を自分で決めてしまい,自分としてはここまでやりました,という態度をとることは生産的とは言えない。後輩の多くは真面目である。真面目は結構だが,いささか手堅過ぎる。「手堅い」を悪くとると,頭が固いことを意味する。もう少し,しなやかであってもよいのではないか。

 「今回はここまででよいでしょう」という発言も,聞いて疲れるものの一つである。これも愚痴でないかもしれないが,少なくとも生産的ではない。記者の仕事は,企画を立て,取材し,集めた情報を原稿にまとめることであり,単純と言ってもよい。それだけに,マンネリズムに陥りやすい。企画の内容,取材する相手,原稿の書き方,どれか一つでよいから,従来と違ったことを試してみる必要がある。後輩と仕事をする時には,何か新しい取り組みをしてはどうかと言ってみるのだが,大抵の後輩は手堅い。ここで言う「手堅い」とは,頭が固い方の意味である。中には「編集長はどう言いますかねえ」と阿呆なことを抜かす後輩もいた。この時は後輩本人が目の前にいたので,「原稿は読者と自分のために書くもので編集長が何を言おうが関係ない」と凄んでしまった。

 やりたいことをやればいい,と言うと,「やりたい企画を通してくれません」と返ってくる。愚痴そのものである。企画は通してもらうものではなく,自分で通すものである。書きたいと思ったら,編集長や先輩を騙してでも,認めさせないといけない。それにはそれなりの作戦が必要なのだが,真面目で手堅い後輩達はいつも同じところに球を蹴ってくるので,なかなかゴールに入らない。

 「編集長(あるいはデスク)がそういうから,そうしたのです」。愚痴どころか居直りである。記者の仕事は,取材を受けてくれる相手がいないと成立しない。ただし,原稿は一人でしか書けない。ペアプログラミングがどこまで効果的な手法なのか,筆者はよく分からないが,“ペア執筆”が成立しないことははっきりしている。最後の最後になったら,たった一人で書くしかない。これは辛い反面,非常に恵まれているということもできる。プログラミングの仕事も最後は一人でこなすものだろうが,自分ひとりで完結はできないと思う。関連するソフトモジュールの開発やテストデータの作成が遅れた場合,それを待っていなければならない。原稿執筆で「自分が面白いと思うから今回の原稿はこう書き直す」ということはむしろ奨励されるが,プログラミングで「自分はこのロジックがいいと判断したので,プログラムを改変します」ということはありえない。

 仕事であるから,真面目に手堅く自分の分をわきまえて取り組むこと自体は悪くない。とはいえ,どこかに遊びというか余裕というか,はったりというか挑戦がないといけない。締切日近くまで取材し,睡眠時間を削りつつ構成を考え原稿を書くわけだが,そうした時でも,心の片隅に遊ぶ気持ちがあったほうがいい。誤解を招きかねない表現だが,「この原稿が出たら世間で話題になるだろう」とほくそえんだり,「この新事実を知っているのは当事者を除けば世間広しと言えども私だけだ。読者にも教えてあげるとするか」と傲岸不遜につぶやいてもよい。「編集長やデスクが何か言うかもしれないが,今回は遊び心のある記事構成に変えてみよう」と冒険をしてみることもよい。自分の仕事や自分を取り巻く環境を笑い飛ばせないようでは,「私は××ですから」となり,「今回はここまででよいでしょう」となり,「デスクが言った通り」「やりたいことができない」という発言をするはめになる。

 今回,題名に引いた「勝手に絶望する若者たち」は,9月末に出た本の書名である。著者の荒井千暁氏は産業医で,「就職氷河期組と呼ばれる時代に入社してきた人たちは,なぜ申し合わせたように一年や二年で辞めてしまうのだろう」という疑問から同書を執筆した。“就職氷河期組”とは,1974年から1981年に生まれた,現在26歳から33歳の世代を指す。たまたま同書を読む機会があったので,題名を借用したまでで,本稿で紹介した後輩記者が「勝手に絶望」しているわけではない。

 荒井氏は,先の疑問への回答を,「育成教育がない」「ゆとりがない」という職場の問題,「思い込みと焦り」「コミュニケーションやモラル」「世代間の軋み」といった就職氷河期組世代の若者の考え方や態度,に分けて記述している。「こういう仕事をしたい」という良く言えば理想,悪く言うと思い込みを持った若者が,人手不足でゆとりも教育もできない職場に放り込まれると,焦りと不満を抱き,がっかりして職場を去ってしまうらしい。

 コンピュータ業界の取材を20年以上続けているものの,現在26歳から33歳の世代を取材した経験はない。したがって,彼ら彼女らが何を考えているのか,どのような問題が実際にあるのか,把握できていない。ただ,人手が不足し,案件は増え,仕事の難度は高まり,現場が厳しい状況にあることは承知している。もし,「勝手に絶望する」コンピュータ技術者の方がおられるとしたら,差し出がましいようだが,“Laugh your life”,すなわち「悩んだり,落ち込んだり,愚痴ったりする前に,自分のことを笑って」みてはいかがでしょうと申し上げたい。