年金問題に関する報道が連日繰り広げられている。昨日の日経朝刊1面には「年金番号 重複なお2万件」という見出しが躍った。本来,公的年金の加入者1人ひとりに割り振られるはずの「基礎年金番号」が同一人物に重複して付けられているケースが,昨年10月時点で2万件も残っていることが明らかになった,というのだ。

 ここで,年金問題の解決に向けた今後のシステム化の行方について議論することは,先日の記者のつぶやき『謎が謎を呼ぶ「IT年金問題」』と重複するので控えたい。ただ,この問題で露呈した数々の事実は,企業情報システムの構築・運用や,そのマネジメントにかかわる人々にとって大きな示唆と問題を投げかけていると思うので,この観点から改めて考えてみたいと思う(6月10日に起きた年金システムの障害については関連ニュースを参照)。

 「元々が紙データ(非電子データ)であった名前を電子化するということは,とても大変な作業なんです。異体字の問題など,考えなくてはならないことは山ほどあります。その作業を開始する前に,作業手順など,どれぐらい考えられていたかが疑問なんですが,多分,何も考えていなかったのでしょうね」。これは,上記の記事(謎が謎を呼ぶ「IT年金問題」)に関連して,読者から寄せられたコメントの一部である。

 紙にしか記録されていない古い情報も含めて整合性の取れた顧客データベースを構築することや,長年にわたり異なるデータベースに記録されてきた同一人物の情報を識別して統合すること(名寄せ)は,とんでもなく大変な作業だ。このことは,特に金融機関をはじめ,膨大な数の顧客を抱える企業にとっては,昔からの常識と言っても差し支えないだろう。

 しかし1997年に基礎年金番号の制度がスタートしたとき,一企業の顧客情報だけでも大変なことを,国は公的年金に加入する国民すべてを対象に始めたことになる。その結果として,約5000万件もの納付記録が個人を特定できず宙に浮いているわけだから,読者のコメントのように「何も考えていなかったのでしょうね」といった批判が出るのも当然だろう。実際に運用が始まってみると,異体字の処理どころか,単純な入力ミスや未入力など様々な手違いによって,支給対象者不明のデータが信じられない件数にまで拡大していったことは,読者もご存知の通りである。

こうなることに誰も気づかなかったはずはない

 しかし,実際はどうなのだろうか。本当に「何も考えていなかった」のだろうか。

 いや,そんなわけはない。1997年の基礎年金番号導入に伴って社会保険オンラインシステムの機能を追加・変更したプロジェクトには,発注者側はともかく,受注者側のベンダーには,前述した情報システムの常識を理解している人が少なからずいたはずだ。システム設計や業務運用の現場に近い関係者ほど,無謀だと思った人や,まともに運用できるとは信じていなかった人も多かったのではないか。

 だが,こうした重要かつ深刻なシステム設計上・業務運用上の課題が,システム化プロジェクトの成否を左右する初期の要求定義段階で,どこまで明確に「制約条件」として認識されていただろうか。おそらく,現場レベルの認識に比べて,ずっと低く見積もられていたのではないかと筆者は推測する。

 社会保険庁が今から2年前の2005年6月に公開した「社会保険業務に係わる業務・システムの見直し方針」を読んで,筆者はいっそうその印象を強くした。この文書は,同庁が2010年度末をメドに進める社会保険オンラインシステムの再構築にあたって,現状の業務やシステムの課題を整理し,それを踏まえて見直しの方針を定めたものである。業務の課題として3項目,システムの課題として4項目,それらの見直し方針として6項目を挙げ,それぞれの項目ごとに内容を掘り下げた小項目をいくつか列挙している。

 これを見ると,今回噴出した問題が,業務やシステムの課題として非常にあっさりとした形でしか取り上げられていないことが分かる。総論的に「年金支給金額の誤りによる過払いや未払いの発生,国民年金の収納率低下に伴う国民の年金制度に対する信頼感のゆらぎ等の課題が生じている」という記述はあるものの,「被保険者記録の整備」という各論では「1人の被保険者が複数の年金を所有する場合があることにより,円滑な年金裁定処理や効率的な年金相談に対応できない場合がある」と述べているだけだ。これを裏返す形で,見直し方針でも「被保険者の記録整備(1人1番号化)を図る」と述べるにとどまっている。

 この文書は元々,政府のシステム調達改革の一環として出されたものなので,業務効率化や経費削減に主眼が置かれている,という反論もあるかもしれない。しかし,被保険者個人と納付記録を厳密に対応づけられるようにすることは,そもそも基礎年金番号導入による保険制度改革の目的の一つでもあったはずだ。それなくして業務効率化も経費削減もないだろう。

 ここまで考えると,今回明るみに出た年金問題は,企業情報システムの世界でも幾度となく繰り返されてきた,やりきれない“動かないコンピュータ”の典型例と言えるのではないか。すなわち,トップダウンの命題と現場での問題意識が乖離しているのに,その乖離が制約条件として冷静に分析されることなく(あるいは,それを指摘する声がかき消されて),プロジェクトを見切り発車してしまう,というパターンである。社会保険庁の場合,プロジェクトの成果物としてシステムは確かに稼働したものの,業務運用が事実上破綻しているのに顕在化しないという状態が何年も続いてきたわけだ。

 社会保険庁の年金問題の解決に向けた取り組みは,国民の最大の関心事の一つとして,今後も報道され続けていくだろう。それに加え,企業や政府・自治体にとっては,今回のような絶望的な“動かないコンピュータ”を回避するための教訓を得るためにも,過去10年間の分析を徹底して進めることが同じくらい重要だと筆者は考える。