長崎市の伊藤一長前市長が選挙期間中に銃撃され,4月18日に亡くなった。民主主義社会の下で,政治家に対してはもちろん,あらゆる暴力行為は許されるものではない。この事件の記憶は,風化させてはならない。

 今回の長崎市長選では,伊藤氏が凶弾に倒れたことにより,伊藤氏に投票した数千票の期日前投票が無効となった。選挙は一人一票が原則であり,再投票は認められないとのことである。原則は原則として,伊藤氏に期日前投票を行った数千人は,実質的に市長選で投票する権利を行使できなかったに等しい。民主主義という制度の根幹ともいえる選挙において,このように大量な無効票が出ざるを得なかったことは,大変残念なことだと思う。

 今後の選挙においても,(銃撃などの暴力行為はあってはならないが)様々な要因で選挙期間中に候補者が死亡する可能性は常にある。より多くの民意を選挙結果に反映させるためにも,制度改正を検討する余地はあるはずだ。

合理的なエストニアのインターネット投票,期日前に何度でも再投票可能

 では,どのような方法が考えられるだろうか。「期日前投票」という言葉から私が連想したのは,東欧バルト3国の一角,エストニア共和国で実施されたインターネット投票だ。以下,“エストニア方式”のインターネット投票について紹介したい。

 エストニアは,2005年10月の地方議会選挙と2007年3月の国政選挙において,インターネット投票を実施した。エストニアの場合,インターネット投票は期日前/不在者投票の期間に行う。また,電子/紙の投票方式は有権者が選ぶことができる。過去2回のインターネット投票率はまだ低い(それぞれ1.8%,5.4%)。しかし,エストニアでは「投票機会増大と利便性の向上」を目標に,長期的視点からインターネット投票の普及を推進しているという。

 インターネット投票の認証は,政府が発行している国民IDカードのICチップに格納されている電子署名を使い,暗号化された投票データを送信する。票の集計時には,投票者の電子署名を削除した匿名の電子投票を,選挙管理委員会が同等の権限の下に開票する仕組みだ。

 エストニアでは,国民135万人に対して延べ100万枚以上の国民IDカードが発行されている。国民IDは国民と在留外国人全員に付与され,IDカードの所持も義務化されている。ただし,罰則規定はないため全員がIDカードを所持しているわけではない。IDカード発行は日本の住基カード同様有料であるが,公共交通の割引など様々な利便性向上策を図り,広く普及させることに成功している。

よく指摘される問題点にも対処済み

 インターネット投票の問題点としてよく指摘されるのは,特定の候補者への投票の強要が有権者に対して行われやすいという点である。確かに,部屋のパソコン画面の前で脅されて投票を強要される,といった状況が生じる危険性は否定できない。エストニアでは,このリスクの回避策として,期日前投票の期間中なら何度でも再投票できるようにした。期間内で最後に行った投票を有効票として集計するのである。さらに,投票日に投票所で紙の投票用紙に記入する従来の投票方式が最優先される。有権者が投票日に投票所に出向いて投票を行うと,期日前の電子投票データは無効となる。

 もう一つ,インターネット投票で必ず指摘される問題点として,「パソコンを持っていない国民はどうするのか」ということがある。エストニアの場合,「WiFi」と呼ばれる公共無料ホットスポットが,現時点で国内1000カ所以上に設置されており,パソコンを持っていなくても,IDカードを持っていればここから投票できるようになっている(WiFiの端末にはカードリーダーが付いている)。WiFiの案内サイトを見ても分かるように,中心都市ばかりでなく,全国各地の図書館,カフェ,ホテル,ガソリンスタンドなど様々な場所に設置されている。

 無線LANを利用したこの無料アクセスポイントは,2003年に有志による無料化の草の根運動が起こり整備が始まった。経済的に恵まれない老人などコンピュータの購入が難しい人たちは,自宅でインターネットにアクセスできない。こうした状態は「国民が権利を行使できない状態である」とみなし,それを解消するため整備されたものだという。

「電子投票機」ではなくインターネット投票の推進を

 この“エストニア方式”のような,期日前に何度でも投票し直せるインターネット投票を,例えば公的個人認証を使うことで日本でも行うことができないだろうか。そうすれば,今回の長崎市長選のような「期日前投票の大量無効票の発生」を防ぐことができる。

 もちろん,紙での期日前投票を差し替えることができる制度を作ることも不可能ではないだろう。しかし,インターネット投票の方が,(1)有権者は投票所に出向くことなくいつでも再投票できる,(2)選挙管理委員会としても本人確認など投票の管理が容易になる,というメリットがある。システムのアクセシビリティに配慮すれば,紙の投票用紙にペンで記入するよりも容易に,しかも,介助者を必要とせずに「投票の秘密」を守りながら,選挙に参加できるようになる障害者の人も増えるだろう。

 これまで日本で行われた電子投票は,投票日に投票所で電子投票機を操作して投票を行うというもので,原則的には紙による投票はできなかった(期日前投票については,紙による投票というケースが多かった)。そして,「全員が電子投票することによる開票作業の省力化」という行政側の都合がもっぱらの導入理由として語られることが多い。

 しかし,「行政事務の効率化」よりも「国民の投票機会の拡大」の方が,電子投票導入の目的としては本来的であり優先されるべきではないだろうか。有権者がわざわざ投票日に投票所に出向いて電子投票機に投票する方式より,24時間どこからでも投票できるインターネット投票の方が,その点では優れている。投票所での投票も,専用の電子投票機ではなく,普通のパソコン+IDカードによるインターネット投票で対応できるはずだ。投票機内のメディアに投票データをため込む現在の方式より,安全性もむしろ高いのではないだろうか。

 今後,もし日本でインターネット投票の実現に向けて具体的に動き出すとなれば,各種議論が起こるだろうが,“エストニア方式”の導入も選択肢に入れてはどうだろう。さらに言えば,エストニアのシステムをカスタマイズして導入すれば,コスト的にも割安なものができるだろう。エストニアでのインターネット投票のシステム開発コストは30万ユーロ。2回目の選挙時には,システムをそのまま使ったので,システムに関する追加コストは発生しなかったという。

 最後に,本稿におけるエストニアのインターネット投票についての情報は,エストニア電子政府について現地調査を行った内田道久 ECOM(次世代電子商取引推進協議会)主席研究員と,前田陽二 同・主席研究員への取材と,両氏にご提供いただいた資料に基づいていることを明記しておく。貴重な情報をご提供いただいた両氏に感謝したい。また,インターネット投票も含むエストニアの国民IDカードの活用状況については,両氏による寄稿を「ITpro 電子行政」において本日公開した。合わせてご参照いただきたい。

■変更履歴
本稿の趣旨をより明確にするために、「この“エストニア方式”のようなインターネット投票を,例えば公的個人認証を使うことで日本でも行うことができないだろうか。」という一文を加筆し,「この“エストニア方式”のような,期日前に何度でも投票し直せるインターネット投票を,例えば公的個人認証を使うことで日本でも行うことができないだろうか。」としました。[2007/05/10 17:22]