遅ればせながら,渕一博さんが8月13日にお亡くなりになったことを知った。追悼記事を依頼されたが,日本のコンピュータ界に大きな足跡を残した人に対して,筆者が言及するのは失礼な気がした。しかし,かつて取材したことのある記者の一人として,わずかな内容ではあるが,接点のあった範囲で振り返ってみたいと思う。もっと広い視点から書ける人が大勢いらっしゃることは承知しているが,それはその人たちの手に委ねたい。

 さて,渕さんといえば,筆者には「第五世代コンピュータ」が唯一の接点であった。渕さんは,第五世代プロジェクトの研究の中心となる新世代コンピュータ技術開発機構(ICOT)の所長を務められた。筆者はニューズレター『日経AI』に所属していたため,「第五世代」は有力な取材テーマの一つであった。

 当時,第五世代計画は,人間と同じように考えることのできるコンピュータを開発するものだ,という理解が広まっていた。海外から「基礎研究ただ乗り」と批判されていた時期だっただけに,まさに画期的なプロジェクトであった。実際,1980年代の日本は,電子産業を中心として技術立国を唱えるにふさわしい成果を数多く挙げていたにもかかわらず,基礎は海外から,という印象を払拭することができずにいたのである。

 とりわけ第五世代がスタートした1982年は,日立製作所と三菱電機の社員がIBMのコンピュータの機密情報を盗んだ容疑でFBIに逮捕された年でもある(いわゆるIBM産業スパイ事件)。この事件は,「基礎研究ただ乗り」の嫌疑に対し,自ら証拠を提出したようなものであった。そのような時代を背景に,IBMのメインフレームとはまったく違う新しい世代のコンピュータ,ある意味では「1990年代のメインフレーム」を目指すという姿勢は,コンピュータ業界のみならず,多くの国民の願望に沿うものであったと言えるだろう。

 そのころ人工知能研究は,花形分野の一つになりつつあった。ある研究会で,居並ぶ若手人工知能研究者を前に,当時の日本の人工知能研究は「かつて1920年代に,ハイゼンベルクやパウリといった若き天才たちが量子力学を建設した頃に比べうる」と発言した大学教授がいたことを筆者は記憶している。それが本当であるのなら,日本発の独創的な研究が生まれるかもしれない。事実,その研究会に集まっていた優秀な若者の少なからぬ人数が,その後何らかの形で第五世代にかかわったのである。

 それでは,第五世代プロジェクトの成果はどのようなものであったか。10年におよぶ開発計画が終了する直前,『日経AI』は第五世代を総括する特集記事を掲載した。その内容は,プロジェクトの成果に対して否定的なものであった。というのも,人間と同じように考えることのできるシステムは誕生しなかったからである。

 しかしそれは,そもそも筋違いの注文でもあった。第五世代計画は,人工知能の研究とは異なるものであったからだ。第五世代は,述語論理を高速に実行する「並列推論マシン」の開発を目標としており,それは人間のように考えるシステムを作るためのツールとして,1990年代に使われるべきものであった。

 推論エンジンとその相互結合ネットワークを開発しただけでは不十分だろうと思った筆者は,もっと人間の思考に迫る研究があってしかるべきではないかと考えたが,そのようなプロジェクトではないという答えが返ってきた。まさにその通りである。要するに,筆者のような報道側も含めて周囲が,期待過剰というか,勘違いをしていたのだった。

 とはいえ,完成した並列推論マシンがその後活発に使われたというわけではない。人工知能の研究も縮小していった。それでは,熱気にあふれていた日本の若き天才たちは,その後どのような研究をしているのだろうか。第五世代プロジェクトには,優れた研究者を育てることも期待されていた。

 コンピュータ分野にノーベル賞はないが,それに匹敵する賞として「チューリング賞」がある。マービン・ミンスキーやハーバート・サイモンのような人工知能の父たちも,歴代受賞者に名を連ねる。

 基礎研究の成果は,思いがけないときに息を吹き返すことがあるものだ。将来,チューリング賞を受ける最初の日本人が,かつてICOTで研究した経験があるか,それともその流れを受け継いだ研究者であることを期待したい。そうなってこそ真の遺産たりうると思うからである。