「産業界で人材育成というと,知識の習得が主眼になりがちですが,知識というものはちょっと勉強すれば得られるものです。難しいのは人間の『心』を育てること」。伊藤忠商事の丹羽宇一郎会長の言葉です。

 1998年に伊藤忠の社長に就任した丹羽氏は,就任早々約4000億円という巨額の特別損失処理に直面しますが,6年の在任中に経営再建を果たしました。再建の中核を担う部長全員と面談を行うに当たって,丹羽氏が見極めようとしたのが,彼らの「心」だったといいます。

 「ひるまない心,困難に立ち向かう心を持っているか。本当に困ったときに,身を投げ出して会社のために働こうという気力があるのか」。業務の知識やスキルの多寡では計れない心の強さが,企業の存続を賭けた修羅場においては何よりも必要だったのです。

 企業の存亡を賭ける,というレベルではないかもしれませんが,大規模なシステム開発や,新規事業の立ち上げなどを担うプロジェクトマネジャーも,成功への期待と不安が交錯する多大なプレッシャーの中で仕事をしているでしょう。納期が迫る中,発生した問題を解決して予定通りシステムをカットオーバーできるか。あるいは,周囲の反対や市場の不透明さにめげず,新しいビジネスモデルを確立できるか。逆風に立ち向かって目的を完遂しようとするプロジェクトマネジャーが最後に信じるものもまた,部下の心であり,何より自分の心ではないでしょうか。

 心を育てる「糧」となるのは,仕事上で問題に直面したり,その際に上司や同僚の支援,励ましを受けたりといった実体験であることは間違いないでしょう。一方で今日においては,よりシステマティックに「心」を育てるための手法が試行されつつあります。その1つがコーチングです。

 コーチングとは,コーチが問い掛けや同意によって,対話相手の思考を促し,問題解決に導く手法です。近年コーチングをミドルマネジメント向けの研修に取り入れる企業が増えていますが,マネジャーと部下のコミュニケーションを円滑にし,部下のやる気を高めるといった目的によるものが多いようです。いわばマネジャーがコーチ役を務めるためのスキルを教えるというタイプです。

 これに対し,マネジャー自身にコーチをつけて,その「心」の育成を支援しようとする試みも始まっています。例えば新規事業立ち上げプロジェクトのマネジャーが,コーチとの対話を通じて,「自分が本当にやりたい事業の姿は何か」「そのために自分はどのような課題を克服すべきなのか」という問いに正面から向き合い,答えを模索するといった具合です。

 上からの押し付けでなく,自ら導き出した答えなので,その実践にもやる気が高まり,周囲とのあつれきにも負けずに自分の意思を貫徹します。日経情報ストラテジー10月号の特集記事「稼ぐ管理職を作る ミドルコーチングのすすめ」では,コーチの支援を受けて新規事業の立ち上げに成功したり,部門の業績拡大を果たしたりしたマネジャーの「心」の動きをレポートしています。


心を「見える化」する

 近年注目が高まってきたコーチングですが,日本ではまだプロのコーチの数も少なく,コストも高いため,経営トップはともかく,ミドルマネジメントにコーチを付ける例はまだ少数にとどまります。企業として組織的にコーチングを取り入れる例とは別に,マネジャーが自部門の予算などを使って自分や部下にコーチを付けるという「草の根」的な活用も徐々に広がっているようです。

 その一例が,オムロンソーシアルシステムズ・ソリューション&サービス・ビジネスカンパニーでICカード・モバイルソリューション事業推進室長を務める竹林一さんです。駅の改札と携帯電話への情報配信をリンクさせた「グーパス」など新規事業の立ち上げや,大規模なシステム開発プロジェクトに携わってきた竹林さんですが,新しいプロジェクトに配置されるタイミングで,コーチの小和田有見さんとコーチングのセッションを持っているそうです。

 「コーチと話す過程で,自分がやりたいことが収れんされて,明確な像を結ぶ」と竹林さんは話します。プロジェクトのスタート時,コーチングを通じて拡散しがちなビジネスモデルを整理し,ぶれない「像」を形成することで,新規事業にありがちな周囲とのあつれきも克服できるといいます。

 竹林さんがコーチングに興味を持つようになったのは,マネジャーとして数々のプロジェクトの「修羅場」を経験する過程でのことでした。「システムの開発プロジェクトなどではプロジェクトマネジメントの手法にのっとって進捗管理のツールなどを活用してきた。でも納期直前のトラブルなどの『修羅場』を乗り越えるためには,理論的な手法ではなく,メンバーの,そして自分自身の精神力が必要になる」。

 コーチングに加え,竹林さんが活用しているのが自分の心の状態を「見える化」するツールです。例えばイー・キュー・ジャパンが提供する「EQI」ではEQ(心の知能指数)理論に基いた質問に回答すると,自分の行動特性をチャートで把握できます。竹林さんは,自分や部下の心の状態をEQIで「見える化」し,さらに小和田さんのコーチングを受けて,チームのやる気を高め,プロジェクトを運用するための戦略を練るそうです。

 「EQIなどでは心の状態が理論的に数値化されるので,理屈っぽい人も納得する。これまでの自分に対する観念が崩されてショックも受けるが,自己変革のきっかけになる」と小和田さんは話します。このほか,360度評価など人事評価の結果もまた,自分の「見える化」には有効とか。「『自分ではここが欠点と思っていたのに,周囲からは意外と評価されている』といったポイントを基点に,『自分』について改めて考えるきっかけとなる」(小和田さん)。

 もちろんコーチングは万能のツールではありません。例えば現状の自分に対して問題意識のない人,改善の必要を感じていない人に「コーチングで自分を見つめ直そう」と言っても効果はさして望めません。「部長職には全員コーチングを受けさせる」といった一律的な活用には限界もありそうです。オムロンの竹林さんは,チームリーダーを務める同僚にもコーチングやEQを紹介していますが,「リーダーとして何らかの問題を抱え,解決しようという意欲が高まっている場合には大きな成果が望める」と話します。

 「心の育成は本来上司の仕事。何でもプロに頼むのはいかがなものか」。こんな意見も聞こえてきそうですが,成果主義が浸透した今日,自分の評価に影響することを恐れて,上司と「腹を割った」話し合いができなくなっている職場も多いのではないでしょうか。もしかしたら本当の問題はそこにあるのかもしれませんが。