「所有してこそわかる感覚がある」。取材中,ある大手製造業のCIOはこんな言葉をふいに紡いだ。このCIOは大手ITベンダーのSEとしてキャリアをスタートした後,外資系ベンダーのマネジャを数社経験。そして数年前にユーザー企業のCIOとして就任した。

 そのコメントの真意を聞いてみた。「ユーザー企業側に立って初めて,システムに対する愛着のようなものが湧いてきた。これまでベンダー側で接してきた顧客に対して失礼かもしれないが,ベンダーにいたときは,そんな感情はなかった」。CIOはこのように説明する。

 情報システムの漠とした巨大さとはほど遠い「愛着」という言葉が出たことに,私は違和感を禁じ得なかった。いくら何でもクルマやカメラと情報システムは違う。しかし,そんな私の感想をよそにCIOは続ける。「運用体制をどうするか考えたり,システムの中長期的な計画を練ったり,といったシステムのライフサイクル全般について真剣に考えるようになったのは,ユーザー企業に勤めてシステムに“所有感”を抱くようになってからだ。以前は正直,構築したらハイ終わり,という感覚で終わっていた」。

 さらにCIOの話はITエンジニアのキャリア設計にまで及ぶ。CIOはベンダーのITエンジニアに対して,「ユーザー企業に身を置いてシステム担当者を経験すると,ITエンジニアとしての視野が広がる。私は50歳を超えてしまったので今さら感が強いが,自分の幅を広げるためにも,若いうちにユーザー企業のシステム担当者を経験してみるのは良いのではないか」と提案する。

 これだけ転職が当たり前のIT業界,ベンダーとユーザー間の「人材環流」がないわけではない。実際そのCIOが身をもって示しているし,私が取材で知り合った人でもITベンダーとユーザー企業を転職で“行き来”するケースはちらほらある。ユーザー企業におけるIT要員の求人がベンダーに比べて活発でないこと,あるいは,ユーザー企業とベンダーでは求められるスキルセットに相違があり,転職には壁となること,などを差し引いても,人材還流の可能性はあると考えて良いだろう。

 IT業界ではしばしば,「業界全体をレベルアップするには,まずユーザー企業が力を付けることが不可欠」と言われている。この点からも,ベンダーでITスキルを積んできた要員がユーザー企業に加わることは好ましい。必ずしもベンダー出身だからいい,というわけではないが,ベンダーの事情を知り,ITスキルに長けた要員は,ベンダー・マネジメントに威力を発揮することだろう。加えて,先のCIOと同じようにシステムへの愛着が湧けば,個人にとっても会社にとってもプラスに働く要素は多いはずである。

 私は決してユーザー企業の方がいいと言うつもりはない。ただCIOの意見は,ITエンジニアのキャリア形成やモチベーションの維持を考える上で一つのヒントと言える。

プロとしての道を決めさせた「エモーショナルな体験」

 その取材の帰り道,過去の取材で大手ベンダーの熟練プロジェクト・マネージャに聞いたエピソードをふと思い出した。なぜあなたはプロマネというキャリアパスを選んだのか,という私の質問に対する回答である。

 その熟練プロマネは20年以上も前,ある大企業の工場のシステムを,顧客と同じ釜の飯を食いながら,時には喧嘩腰で意見を交わしつつ構築を進めた。稼働したときは客・ベンダーの区別なく,涙を流しながら喜んだ。それが忘れられずに今でもプロマネを続けている,と。職業人としてなかなか幸せな体験である。

 筋としては,やる気や愛着,感動といった情動を抜きにしてでも進めるべきものがプロジェクト,ひいては仕事である。良きにせよ悪きにせよ,感情を排除することで物事の仕組みはうまく回る,という側面は否定できない。そもそも,予算や納期,人間関係といった面でドライになりつつある現在,このプロマネと同じような環境に立ち会える人は今時少ないことだろう。

 ただ,情動に訴える体験の有無が,スキルアップやキャリア形成に大きく関わっていることは間違いない事実である。体験する時期はCIOのようにある程度歳を重ねてからかもしれないし,熟練プロマネのように若い時かもしれない。