ビデオや音楽配信,ソフトウエアそのものの流通,業務ロジックを単位としたソリューション提供など,ネットを通じてユーザー・ニーズに直接応えるビジネスの形態は,アイデア次第で無限に広がる。質量のないデジタル・データが人々の感動を呼び起こし,しかもそれがビジネスになる。2005年はまさにそれが実証された年でもあった。しかし,デジタルでできることが人々の想像をあまりに超越しているためか,未来をつぶしてしまう動きにつながることが起きかねない。
デジタル放送の開かれた未来
中でも,ニュース的な動きとしてどうしても取り上げておかなければならないのが,デジタルテレビのコンテンツ配信モデルの未来にかかわる問題だ。コンテンツがデジタルになり,配信経路もデジタルになることで,今は実現できていないビジネス・モデルが新たに形成され,それこそ無限に広がっていく(はずだ)。
たとえば世界遺産を伝えるドキュメンタリー番組を見ている人が,あるシーンがとても気に入ったとしよう。シーンの購入ボタンを押すと,その場でフルハイビジョン解像度でダウンロードされ,壁掛けの大判ポスターを印刷できる。価格は数百円。ダウンロードした本人なら,無料ないしはごく少額の追加料金で何回でも再利用が可能。しかし,他人に渡しても,それは無効なデータになってしまう。もし,プリンタなどの適当な機材が手元になければ,すぐに印刷サービス・ビューローに接続し,印刷・配送サービスを依頼できる。ビューローからなら,壁一面にかけられるほどの大判印刷も可能となる。
紹介された世界遺産を訪れるツアーを選択し,購入することもできるだろうし,その映像にたまたま映ったセクシーなマウンテンバイクも購入窓口へのナビゲータとして機能する。コンテンツ配信者は販売サイトへの誘導,あるいは販売に結びついた件数に応じて収益があがる。
当然,映像コンテンツにはそれなりのメタデータが豊富に付与されていることが前提となるが,デジタル・コンテンツ配信が一般化し,何年か経れば,その蓄積も進むだろう。
映像に伴って流れる音楽も購入対象になる。ナレーションなどにかぶさり,音楽がそのままの形で入っていない場合でも,メタデータ中に存在すれば別途購入できる。メタデータ中に楽曲データが存在しない場合でも,その音源でネットを自動検索して元データを割り出せるサービスだって出てくるだろう。
家族の成長記録を残したビデオに,その時代背景を示す映像を取り込むこともできる。利用料金はせいぜい数百円。何しろそれを多数複製して配布することはできないのだから。逆に配布可能にして,数に応じてライセンス契約ができるようにしても面白い。
しかし,残念ながら,今の制度,あるいはその制度改革の議論はそんな未来のアイデアを封じ込めてしまう方向にある。
楽しみが広がるiTunes 6
ここでちょっと話は変わるが,すでにiTunesの新版を使ってみただろうか?
2006年1月11日に配信開始されたiTunes 6では,ライブラリに登録した楽曲を演奏すると,それに関連したアーティストや楽曲の更なる推奨(レコメンデーション)がMini-Storeという形で表示される。自分が購入したCDから取り込んだ楽曲でも,iTunes Music Storeから購入した楽曲でも,さらなるレコメンデーションが返ってきて,楽しみの幅がぐんと広がる。昔,気に入って買ったアーティストのCDアルバムの新譜が思いがけず出ていたりするのに気が付き,思わず購入ボタンを押してしまう。
再生中の楽曲データを抽出し,AppleのiTunes Music Storeサイトに送ることで,レコメンデーションを返して来る仕掛けだ。これを「個人情報が抜かれる」と反発する向きもあるようだが,私はこのレコメンデーションが大いに気に入っている。やはり広い世界には私の知らない動きがたくさんあって,それを気付かせてくれるのはとてもありがたいのだ。画面の狭いパソコンで使っているとMini-Storeの表示領域がうざったいと感じることもあるだろう。そのときは一時的にオフにすればいい。
デジタル放送の閉ざされた未来
このような知的領域の拡大をもたらしてくれるサービスは,今後大いにもてはやされるだろうし,また大切にされるべきものだと考える。先ほどたとえとして取りげた世界遺産ドキュメンタリーに焦点を戻そう。気に入って買った映像を後で見返したときに,さらにそれよりも新しい取材番組があることを知ったり,その世界遺産が地球温暖化のために破壊されかかっているということを知ることにもつながっていく。
ある時点で抱いた興味は時間を経るに従って変化していく。時代が変わり,世界環境が変わり,本人の成長,あるいは病気などによる境遇の変化により,向けられる興味の対象は刻々と変化していく。しかし,自分の購入したコンテンツに振られたメタデータが,新たな発見につながる導線として働くことで,自分にとっての「世界」を常に最新の状態に保つことができる。当然,購入した本人なら新しい機器に入れ替えたとしても,そのコンテンツを新しい環境に移して楽しめる。
しかし,今日本で進んでいる議論の多くは旧来のアナログ時代の古い考えを引きずっている。デジタル・コンテンツを暗号化し,なにがなんでもコピーをさせない方向に向かいつつある。購入した本人でさえ,制約だらけの狭い空間に閉じ込められつつある。今後高品位のデジタル・コンテンツを録画機にためても,機器を更新すると使えなくなったり,別のメディアに移しかえるとせっかくのメタデータは跡形もなく消えてしまう。
デジタルのコンテンツだというのに,アナログ時代のコンテンツ配信が実現していたことだけに拘泥しているからこのような方向になる。もちろんそれらを議論する委員たちが新しい時代の可能性に思い至っていないことが,それらの議論を不毛に,後ろ向きにさせてしまう。
iTunesの例で触れたように,いったん購入したコンテンツをさらに持続性のあるビジネスに結びつけるという発想がなぜ出てこないのか。コンテンツは購入した本人なら,どんな形ででも簡単にバックアップでき,機器を更新しても本人認証を行えばいつでもその権利を取り戻せる,しかもその利用形態に応じて利用者・供給者側双方にとって合理的な課金ができる,といった仕組みをまず基本に置き,そこから発想できるさまざまな未来に思いをはせるべきだ。
その実現のために障壁となっている放送法も著作権法も通信事業法も電波法も早急に見直す必要に迫られる。
開かれた未来をつぶすな
デジタルだからできることがたくさんある。それを大きく後退させるような発想がこれらの法律に巣くっている。
当たり前だ。何しろ,これらはアナログの世界にどっぷりと浸かっていたころ,iTunesや各種のVODサービスが個人の生活にまでデジタル・コンテンツを運ぶ時代が来るとは想像だにし得なかった大昔に作られた法律だからだ。
まだ私たちが気付いていない,新しい未来のサービスが生まれる可能性を秘めた土壌を不毛の地へと荒廃させぬよう,今こそ考えるときだ。
パソコンの父と言われるAlan Key氏はこんな名言を口にしている。
The best way to predict the future is to invent it !(未来を予測する最善の方法は,未来を発明してしまうことである!)
そんな未来の発明につながる発想,それ自体をつぶしてしまいかねない議論にだけはしないよう,私たち一人一人が強く意識しておく必要があるだろう。