「いま言われている“ユビキタス”なんて,全然ユビキタスじゃない。みんな,最先端ITのことをなんとなくユビキタスと呼んでいるだけでしょ」。東京大学の坂村健教授はインタビューを始めるや否や,そう切り出した。

 坂村教授は20年ほど前に「TRONアーキテクチャ」を提唱。以来,コンピュータによる人間生活の支援をテーマに据えて,さまざまな活動を続けている。ここ数年は,「ユビキタス・コンピューティング」の啓蒙(けいもう)や普及推進に力を注いでいる。

 「私が20年以上前から目指しているのは,モノが動いている,電灯がついている,気温が変化している,といったモノや環境の状況を,コンピュータとネットワークを使って自動的に認識する仕組みを確立すること」。坂村教授はこう説明する。そうした概念を坂村教授は「コンテクスト・アウェアネス(文脈を認識できる)」と表現する。

「コンテクスト・アウェアネスを実現する基盤ができてこそ,ユビキタス・コンピューティングが実現する。その意味では,ユビキタス・コンピューティングの実現はまだこれからだ」(坂村教授)。

モノや場所を一つひとつ区別して認識

 坂村教授が言うコンテクスト・アウェアネスのメリットについて解説していこう。例えば,食品のトレーサビリティ。その食品を誰がいつどこで,どんな方法で作ったのかを管理することだが,コンテクスト・アウェアネスが実現すると,より便利で安全になるという。

 食品事故が発生した際,メーカー側は誰が買ったかを特定できないから,回収には消費者による認知が不可欠である。しかし,消費者は新聞やテレビのニュース等で見聞きしなければ,事故の発生を知る由もない。ユビキタス・コンピューティングが実現するとどうなるか。「その食品が入っている冷蔵庫や,食品の情報を読み取った携帯情報端末がピッと鳴って,『この食品は食べてはいけない』と人間に知らせてくれる」(坂村教授)わけだ。

 ここで大事なのは,単に商品の種類を識別するだけでなく,個体を認識できるようにすること---つまり,モノを一つひとつ区別することである。例えば医薬品の管理であれば,同じ種類のワクチンでも,ちゃんと温度管理されて運ばれてきたのか,いい加減に運ばれてきたのかを同時期に生産された10万本について1本1本区別できないといけない。

 これには,単に商品に無線ICタグを付けるだけでは意味がない。要するに「ユビキタス・コンピューティングを実現する上では,単に無線ICタグや情報端末,ネットワークを整備するだけでは不十分」(坂村教授)ということだ。

 坂村教授は,コンテクスト・アウェアネスを実現するための「uID」という仕組みを提案,非営利組織「ユビキタスIDセンター」を通じて運用している。世界で一つしか存在しない番号「ucode」をRFIDやバーコードに対して発行し,サーバーでその番号を一元管理するものだ。uIDやucodeの仕組みについては別途詳しい解説があるので,そちらを参照してほしい(参考記事)。

 uIDを使った実証実験は東京・上野,神戸など日本各地で行われている。また来年以降,韓国やオーストラリアでもuIDを使った実証実験を始める予定だ。

10年後にはユビキタスが当たり前に

 「あらゆるモノや場所にコンピュータやICチップが埋め込まれ,それらがいつでもどこでもネットワークでつながって協調動作し,市民や企業の活動を支援すること」。ユビキタス・コンピューティングの定義は人によって違いがあるが,有識者らの意見を総括すると,このように表現できる。

 この表現を前提に考えると,ユビキタス・コンピューティングが完全に実現しているとは言い難いのが現状だ。uIDを使うかどうかは別にして,坂村教授が冒頭のように言いたくなる気持ちは理解できなくもない。

 ただ,ユビキタスの一端を示すシステムは,すでにそこここに存在する。無線ICタグは青山商事やヨドバシカメラなど大手流通業が実用化に向けた動きを見せている(参考記事1参考記事2)。「Suica」をはじめとした非接触型ICカードの普及には目を見張るものがある。ソニーの非接触型ICカード技術「FeliCa」を採用した機器の出荷台数やカード発行枚数は,すでに累計で9000万を超えているという。言うまでもないことだが,一般消費者は多機能型携帯電話を使って,さまざまな情報やサービスを享受している。

 最近,都内地下鉄の駅構内の一部には2次元バーコードが張られているが,これを携帯電話のカメラで読みとると,携帯電話向けインターネット・サービスを介して周辺の地域情報が得られる。仕組みは単純だが,場所と情報をリンクさせたサービスを見ると,情報の遍在---ユビキタス(「遍在する」というラテン語を語源とする英語)というフレーズが思いつく。

 これら個々のシステムやサービスが発展していくことで,よりユビキタス・コンピューティングらしいものが生活や産業に入り込んでいくのだろう。ソニーコンピューターサイエンス研究所の所眞理雄社長は,「個別のシステムが発展し,互いにつながることで,いつの間にかユビキタス・コンピューティングが実現している。今後,そんなプロセスを経ることになるだろう」と語る。

 「10年後には,ユビキタス・コンピューティングが当たり前のようになっている」と坂村教授は断言する。IT Proが11月に実施した調査でも,実に9割の人が「10年以内にユビキタス・コンピューティングが実現する」と回答している。こうしたユビキタス・コンピューティング関連の現状や動向を12月8日発行の日経コンピュータ/日経情報ストラテジー特別編集版「証言とキーワードで読み解く情報システム2006」に記した。興味をお持ちであれば,ぜひご覧になっていただきたい。

機器の進化とネット整備が実現を支える

 ユビキタス・コンピューティングを現実化するキーワードは二つ。一つは,機器の小型化と多機能化。もう一つは,ネットワークの整備だ。

 携帯電話や無線ICタグの例を言うまでもなく,コンピュータやICチップの技術は,ここ10年で驚くほど進化した。また,2001年から本格始動した政府のIT戦略「e-Japan」は,世界で最も安価に,高速なネットワーク・サービスを利用できる環境を作り上げた。ADSLや光ファイバなどの有線ネットワークだけでなく,無線ネットワークも全国に広がりつつある。

 「コンピュータの小型化とネットワークの整備という二つの要素ががっちり組み合うことで,アプリケーションが一気に広がる」。アクセンチュアの堀田徹哉エグゼクティブ・パートナーは,ユビキタス・コンピューティングの可能性をこうみる。