プレイステーション,同2の延べ出荷台数
プレイステーション,同2の延べ出荷台数
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 過去,2度に渡ってゲーム機業界の常識を覆した男,それがソニー・コンピュータエンタテインメントの久多良木健氏である。

 最初は今から11年前にさかのぼる。任天堂とセガ・エンタープライゼスの2強がつばぜり合いを演じる中,新規参入は不可能とされたゲーム機市場に進出し,形勢を逆転した。「ゲーム機に手を出すことで,ソニーのブランドを汚さないか」との社内の反対を押し切り,自らも新会社に出資,久多良木氏の最初の夢は実を結んだ。1994年12月3日(注:イチ,ニ,サンと弾みをつける意味でこの発売日に設定)に発売されたプレイステーションは,今日までに世界で1億台以上を出荷した(関連資料)。

 そして2度目のチャレンジでは,既存の枯れた技術をゲーム機に使うという常識を否定した。2000年3月4日(注:平成12年3月4日で,やはりイチ,ニ,サン,シと数字を並べた日付に発売日を設定)に発売されたプレイステーション2では,ゲーム機用LSIを製造するために,総額2500億円余りを投資して最先端の半導体工場の建設に踏み切った。LSIの性能が極めて高かったことから,その性能を使い切るゲーム・ソフトウエアの開発費が高騰し,大作主義への批判が高まった。こうした不安をよそに,昨日(2005年11月30日)にプレイステーション2の累計出荷台数が1億台を突破したと発表した(関連資料1関連資料2)。6年足らずでの大台,つまりプレイステーションを大幅に上回るペースで普及が進んだわけだ。パソコンの全世界出荷台数に比べれば1/10だが,一社独占でこのプラットフォームを提供することの影響力は実に大きい。この間に提供したゲーム・ソフトウエアは10億本,そのライセンス収入が同社の大きな収入源となっている。

3度目の挑戦,それは技術の逆流

 さて,この久多良木氏が3度目の常識破りに挑む。ゲーム機で生まれたアイデアをコンピュータ・アーキテクチャの主流にしたいとする。大型コンピュータあるいはスーパーコンピュータに向けて開発された技術がパソコンや家電,組み込み機器へとダウンサイジングする---これが過去の歴史だった。この流れを逆流させる。それを実現するのが,次世代ゲーム機「プレイステーション 3」に向けたマイクロプロセサ「Cell」だ。一つのマイクロプロセサに,複数のCPUコアを内蔵するマルチコア・アーキテクチャを採る。パソコン用マイクロプロセサでは,デュアル構成が主流になりつつあるが,CellではSPEと呼ぶ8個のCPUコアと1個のPower系CPUコアを内蔵する。米Microsoft Corp.の新型ゲーム機「Xbox 360」も3個のPower系CPUコアを内蔵するが,Cellはその3倍の処理ユニットを持つ。マルチコアは,いずれコンピュータ・アーキテクチャの主流になると期待されていた技術だが,それを最も積極的に採用したのがCellといえる。

 そして久多良木氏は,Cellをゲーム機の技術にとどめず,デジタル家電の心臓部,さらにはサーバーやスーパーコンピュータにも適用していく考えだ。特に,Cellの浮動小数点演算性能を生かせば,高性能なシミュレーション計算機を実現できると夢を膨らます。2008年を目標に,映画「宇宙2001年宇宙の旅」に登場するコンピュータHALを実現しようと考えていたという。

 久多良木氏が最近の講演で披露したプレゼンテーション資料では,スーパーコンピュータ用Cellの動作周波数は2.5GHzと記載してある。これを一つのボードに18個実装する。このボード16枚を1ラック(筐体)に納め,40個のラックを相互につなぐ。つまり,1万1150個のCellで1P(ペタ)FLOPSに達する。ボード間あるいはラック間の接続には,電気配線ではなく光配線を利用するという選択肢もありそうだ。これは現時点で,構想というより,まだ妄想の段階に過ぎないのかもしれないが,ゲーム機用LSIで世界最速のスーパーコンピュータを作ろうという並々ならぬ意欲が感じられる。

 ではなぜ,こうした技術革新の逆転現象が起きたのか。かつて,大型コンピュータあるいはスーパーコンピュータは4年から5年の歳月を費やし,大きなイノベーションを引き起こしてきた。ハードウエアとソフトウエアの両方を抜本的に設計し直すことで非連続な技術進歩を遂げることが可能だった。ところがここ数年,経済状況の悪化を背景に,コンピュータ・メーカーにおける技術開発の現場で,長期的な視野に立った技術開発を敬遠する傾向が強まっている。短期に成果を生む技術開発が重視される。つまり,既存の技術を延長する改良型のアイデアに注目が集まる。大型コンピュータはもとより,Intel社のマイクロプロセサにしても,Microsoft社のOSにしても,ここ数年は大きなアーキテクチャ変更がなく,改良の積み重ねによる技術革新にとどまっている。

 こうした状況下にあって,Cellはある種,20世紀のコンピュータ業界を想起させるかのごとく,斬新なアイデアを熟成させた成果物といえる。LSIの開発期間で4年,ピーク時に回路設計者だけで300人以上,この数字はIntel社が86系マイクロプロセサを世代交代させる際に投じた人的資源に匹敵する。

ソフトウエア開発のコミュニティーをいかに形成するか

 Cellを搭載した「プレイステーション 3」の発売は2006年春の予定だ。それに先駆けて,Cellを搭載したワークステーションの出荷がこの12月中にも始まる。ゲーム・タイトルの開発を促進することがねらいである。ただし,Cellをゲーム機用の技術に終わらせないためには,ワークステーションの提供だけではおぼつかない。
 Cellの最大の特徴であるマルチコア・アーキテクチャを生かしたソフトウエアの実装が重要テーマとなる。では,だれがマルチコア・アーキテクチャに精通しているのか---残念ながら,世界的にもマルチコアに長けたソフトウエア技術者は皆無に近い。並列処理コンピュータに向けてソフトウエアを開発した経験のある技術者なら,ある程度の勘所はあるだろうが,マルチコアではCPUコア間の結合関係がさらに強い。今後,研究開発の余地が多分にある。ならばどうするか。Cellの開発に携わったソニー・グループと米IBM社,東芝は,コミュニティーの存在に目をつけた。社内を問わず,社外の人的資源も活用するべく,Cell関連技術の開示に積極的な姿勢を見せている。3社の独自技術であるCellの情報をオープンな場にさらすことで,新たな技術提案を世界中から募ることになる。

 久多良木氏は,多くの日本人経営者と異なる,会社というわく組みに対するこだわりが小さい。これまでも,「僕はソニーの社員とは思っていない。プレイステーション・ワールドの一員だから」と明言し,プレイステーションというプラットフォームに集うコミュニティーを大事にしてきた。CellのLSI開発にあたっても,PS2時代から付き合いのあった東芝のほかに,IBM社にも声をかけた。こうした会社のわくを超えた開発リソースの共有を,ソフトウエアの世界にいかに持ち込めるか,これが久多良木氏の次なる手腕の見せ所になりそうだ。

浅見 直樹=IT Pro