「これからは,現場のユーザーのことを考えた使い勝手の高いシステムを作れないITベンダーさんには,発注しません」。ソニー生命保険は最近,取引先のITベンダーに対してこんな方針を打ち出した。

 目的は,営業支援システムなど基幹業務システムの刷新を本格化するに当たって,使い勝手の高いシステムを設計開発できる体制を整えるためである。そのため今年1月までに,業務システムの使い勝手(ユーザビリティ)とは何かを定義したうえで,ユーザー・インタフェースの設計プロセスや画面一つひとつのデザイン方法などに関する社内標準を策定。それらに準拠することを,取引先のITベンダーにも求め始めたというわけだ。

 ユーザー・インタフェース設計の責任者となった長尾和洋 営業企画本部営業情報支援部web支援課主事は,元営業担当者としての経験を踏まえてこう語る。「システムのちょっとした使い勝手の悪さも,それを日々使う現場のユーザーにとって大きな問題になる。逆にシステムの使い勝手が高ければ,それだけ業務の生産性が高まる。しかしこれまで,システムの使い勝手は,設計開発を担当するITエンジニアの属人的なスキルに左右されていた。そこで上司の理解を得て,外部のITベンダーも巻き込んで,確実に使い勝手の高いシステムを構築する“仕組み”を作ることにした」---

使い勝手への問題意識に大きな温度差

 日経ITプロフェッショナル2005年9月号(9月1日発行)で「画面設計の極意」の特集を担当することになり,ユーザー・インタフェース設計に携わる30人以上のITエンジニアに,現状の問題点や個人的なノウハウを聞いて回った。その際,ソニー生命保険の長尾氏のように,システムの使い勝手について強い問題意識を持つITエンジニアが多かった。

 「現場業務に密着した使い勝手の高いシステムを提供できなければ,社内SEとしての存在価値はない」(KDDIの島本栄光 情報システム本部システム企画部企画グループ課長)。「機能要件を満たすシステムを作るのは最低条件であり,ユーザーからの信頼を得るには,どれだけ使い勝手を高められるかがカギになる」(東洋ビジネスエンジニアリングの清水秀樹 第1事業本部営業コンサルティング部R/3コンサルタント)。このように,使い勝手を高めることはITエンジニアの重要な役割の1つ,と位置づける声が多く聞かれた。

 一方で,システムの使い勝手に関して問題意識の薄いITエンジニアも少なくなかった。「使い勝手は好みの問題だから,現場のユーザーの意見を聞いていたらキリがない」,「最初は使いにくくても,日々使っているうちにだんだんと慣れるもの」。こう話すエンジニアもいて,取材が空振りに終わることもあったほどだ。

 「ITエンジニアの使い勝手の重要性に対する認識は,一般に不足しているのではないか」と,工業デザインの専門家でシステムのユーザー・インタフェース設計も手掛ける富士通総合デザインセンターの岩崎昭浩コーポレート・ソリューションデザイン部長は指摘する。「使い勝手を少しでも高めようという意識が欠如しているエンジニアは決して珍しくない」

使い勝手の重要性が高まる

 使い勝手に対するITエンジニアの意識の差は,どこから生まれるのか。製造業向けシステムの設計開発などを手掛けるロジックスジャパン(浜松市)の古賀敏生 社長はこう説明する。「使い勝手に関する現場のニーズやクレームは,システムのカットオーバー後に出てくることが多い。そのため,運用保守に携わるエンジニアは必然的に問題意識を持つことになる。一方で設計開発だけを担当するエンジニアは,現場のユーザーが大きな不満を持っていても気付かないか,放置してしまう」

 フィードバックがなければ問題意識が薄くなるのは当然である。そして最近の状況変化にも,気付きにくくなっているのではないだろうか。その変化とは,「現場のユーザーが求める使い勝手のレベルが近年ますます上がっている」(システムコンサルタントであるタイセイ=川崎市多摩区=の武内義之取締役)ということだ。その背景となる要因はいくつかある。

 業務を遂行するうえで今やシステムは不可欠な存在であり,使用する場面や時間が大幅に増えた。しかも人材の流動化や派遣社員・パートタイマーの増加などにより,どんな従業員でもシステムにすぐに習熟できることが求められるようになっている。また,システムの誤操作によって重大なトラブルに発展するケースも少なくない。

徹底して現場のユーザーの視点に立つ

 では,どうすれば使い勝手の高いユーザー・インタフェースを設計開発できるのか。重要なポイントとなるのが,「機能要件ばかりにとらわれず,徹底して現場のユーザーの視点に立って使い勝手を考え設計開発すること」(静岡県健康福祉部病院局医療情報室の増田正弘 主幹)である。簡単な例を1つ挙げよう。

 東洋ビジネスシステムサービスの中村尚志理事テクニカルダイレクターは最近,あるユーザー企業の業務システムのトップ・メニュー画面を,業務フロー図としてデザインした。ユーザーは画面に表示された業務フロー図のステップごとのボタンを順次押していくことで,業務を進められる仕組みである。

 当初の案は,「商品検索」や「伝票登録」といった機能を表すボタンをずらりと並べたメニュー画面だった。しかし「現場を改めて調査すると,業務の流れを十分に理解していないパート・タイマーもシステムを使うことが分かった。そこでパート・タイマーの視点に立って使い勝手を考え,システムの画面自体が業務フローのマニュアル代わりになるようにした」(中村理事)

「ユーザー中心設計」という設計方法

 これは,中村氏の属人的な観察眼とノウハウによる工夫と言える。一方で,徹底して現場のユーザーの視点に立つことを指向して体系化したユーザー・インタフェースの設計開発方法が存在する。それが,「ユーザー中心設計(User Centered Design=UCD)」である。米国を代表する認知科学者であるドナルド・ノーマン氏が1986年に著書の「USER CENTERED SYSTEM DESIGN」で提唱したのをきっかけに,世界的に研究が進んでいる。

 UCDは研究者や企業によって内容が異なり,標準的な方法があるわけではない。ただしUCDの多くに共通する特徴がある。例えば,設計開発の担当者が現場のユーザーになり切って使い勝手の高いユーザー・インタフェースをイメージできるように,「ペルソナ」と呼ぶ仮想のユーザーを設定し,業務の流れを文章で詳細に表した「シナリオ」を作成する。また,プロトタイピングとユーザーによるテストを何度も繰り返す。こうした工夫により,設計開発の過程で一貫して現場ユーザーの視点を持ち続けながら,業務の流れや現場の実状に合うユーザー・インタフェースを設計するわけだ。

本当に必要なのはITエンジニアの「こだわり」

 実は,冒頭で紹介したソニー生命保険のユーザー・インタフェース設計プロセス標準も,UCDの考えに基づいた方法の1つである。これは業務システムへの適用を前提としているだけに,多くのITエンジニアにとって参考になるはずだ。そこで日経ITプロフェッショナル9月号の特集で,ソニー生命保険の設計プロセス標準の流れを,現在開発中の営業支援システムを題材に詳しく解説した。

 また,UCDの設計プロセスとしてもう1つ,JR東日本や一部大手私鉄の券売機のユーザー・インタフェース設計を手掛けたデザイン会社ユー・アイズ・ノーバス(東京都渋谷区)が考案した方法も取り上げた。システムの使用目的や利用状況などユーザー・インタフェースの“切り口”を分析する方法に特徴があり,従来の手法にとらわれない設計プロセスとして参考になるだろう。

 そのほか特集では,画面一つひとつをデザインする際のテクニックも示した。人間の自然な視線の流れに沿った情報の配置の仕方,画面全体の構成を一目でつかみやすくするレイアウトの方法,目が疲れにくい色遣い,ラジオ・ボタンとプルダウン・メニューの効果的な使い分け方など,これまでITエンジニアのセンスで片付けられがちだったデザイン・ノウハウを7つの鉄則としてまとめた。

 ただし,こうした方法論やノウハウ以上に重要なことがある。それは,徹底して使い勝手を高めるというITエンジニアの気概やこだわりである。これは,今回取材した,使い勝手に問題意識を持つITエンジニアがすべからく持っていた。「ユーザーの合意をいったん得たからといって,それで終わりにはしない。ITエンジニアから提案して使い勝手を高める努力をしないと,ユーザーの満足を得るのは難しいからだ。それができなければ,プロフェッショナルとは言えないと思う」(システムインテグレータの梅田弘之代表取締役)