受講者は、毎回「自己紹介」する。回数を重ねるうちに、聞く人の注意を引きつける話し方を身につけていく
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 「ではまず一人ずつ自己紹介してください。『生涯で一番恥ずかしかった体験』も話してね」。こんな呼びかけから始まる「講習会」が、毎週水曜午後、東京・秋葉原で開かれている。

 主催するのはソフト開発会社のHOWS(ハウズ)。2005年設立、社員約20人の新興企業ながら、ウェブブラウザー上でスムーズにアプリケーションを操作できる技術「Ajax(エイジャックス)」の分野で、先進的な技術と多くの実績を誇る企業だ。同社が社員向けに始めたAjaxの講習会に、2006年後半から顧客企業などが社員を送り込むようになった。

 Ajaxの講習会とはいいながら、技術に関する講義やプログラミングの実習などはほとんどない。講師を務める庄司渉副社長が「雑談」をしながら、参加者を巻き込んでいく。冒頭のように「恥ずかしい体験」を参加者に語らせたり、毎週一人ずつ手品を覚えて発表させたり。時には全員でカラオケに行ったり、映画やお笑いのビデオを見たりすることもある。「社員を派遣している企業の上司や人事部が知ったら、目を回すかもしれない」と庄司副社長は笑う。

「コミュニケーション下手」を克服する


手品を覚えて皆の前で披露する。これも立派な「研修」メニュー
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 しかし参加企業は増える一方だ。大成建設の情報企画部をはじめ、東京ガスのシステム子会社ティージー情報ネットワークなど、大企業のシステム部門が講習会に社員を派遣する。

 「当初はAjaxを体感し、業務システムにどのように活用できるかを社員自身に考えさせることを目的に、社員に講習を受講させた。しかし、最初の講習生からの報告を聞いて、効果は予想外に大きかったことを痛感した」。2006年9月に3人の部員をHOWSの講習会に派遣して以来、2007年1月、同4月の2期にも継続して5人を送り込んでいる大成建設の木内里美情報企画部長は力を込める。

 「驚いたのは、研修から戻ってきた部員が、自分の言葉で明確に自分の考えを話せるようになっていたことだった」(木内部長)。システム開発の納期に追われ、日夜を問わずパソコンに向かい合うシステム部員は、一般的にコミュニケーションが苦手といわれる。講習会の2期生として参加した同社情報企画部の長瀬忠氏も、「人の前で話をするのは本当に苦手だった」と話す。

 ところが、HOWSでの3カ月の講習で変わった。自身が開発を担当したシステムの稼働をひかえて、全支店から担当者を集めて開催した新システムの説明会では、木内部長も驚くようなプレゼンテーションを披露したのだ。

 業務効率改善のためのシステム導入も、現場にとっては従来の業務プロセスを変え、煩雑な操作を覚えなくてはならない「厄介者」と受け取られるケースも少なくない。せっかく全国から担当者が集まったのに、早口で技術的な説明をするだけでは「せっかく来たのにこんな話か」という反発を生み、システムの活用意欲も高まらない。長瀬氏のプレゼンでは、「システムが現場の業務効率改善にもたらす効果など、聞く人が知りたいことを、分かりやすく、一人ひとりの目を見ながら話した。そうすることで『なぜこのシステムを使うのか』を参加者に納得させることができていた」(木内部長)。

 こうしたコミュニケーション能力を磨くための訓練が、HOWSの講習会には埋め込まれている。「恥ずかしい体験」を含め、自分の日常の出来事を発表させるのは、相手に興味を持たせるように話のメリハリを付けて話すスキルを身に付けるため。手品を覚えて披露させるのも、周囲の注目というプレッシャーに打ち勝って自分を表現するため。カラオケで高得点を競わせるのも、「どんな歌をどう歌えば、カラオケの採点マシンで良い評価がつくか」を読み取るための訓練だ。

 「世界に通用するエンジニアになるには、自分をアピールする能力を鍛えなければいけない」。HOWSの庄司副社長は、こうしたポリシーの下、講習会の参加者に自分を表現する場を与え、場数を踏ませ、自信を育んでいく。

教えない、気づかせる


講師を務める庄司渉副社長。とりとめのない話の中から、受講者に「気づき」を与える
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 一方で、表現力の豊かなソフトを開発するために、参加者の感性を磨くことにも重点を置く。映画やマンガ、音楽、お笑いのビデオなど、様々なコンテンツを共有しながら、「優れた表現力」を体感させていく。「Ajaxは表現力が武器。人に見てもらい、使いたいと思ってもらわないといけない。そのためにはエンジニアが感性を磨かなければ」と庄司副社長は力を込める。

 「テレビで見たトピックや、身近な人に起こった出来事など、一見とりとめのない庄司さんの雑談も、実はコンピュータのアルゴリズムや表現手法などに関連している。頭ごなしに言うのではなく、『ちゃんと気づけよ』というメッセージが込められている。これに気づくと、すべての会話やイベントが有益なものになる」。大成建設の第一期生として講習会に参加した杉村誠課長はこう語る。

 3カ月の講習期間で、各受講生はAjaxでアプリケーションを開発する。といっても、プログラミング作業はほとんどが自宅作業。講習会の場では、自分の課題を発表し、他の受講者からの意見を踏まえて改良を重ねる。

 第3期の講習会には、デザイン会社のソックスビジュアル・デパートメント(東京・渋谷区)でアートディレクターを務める坂井勇樹氏らが参加し、デザインの専門家の視点から、アドバイスを与えている。「同じ業種の人だけでは同質の発想ばかりになりがち。異業種の専門家を交えることで、新しい発想が生まれる」という庄司副社長の考えによるものだ。

 受講者の多くは企業の業務システムの開発に携わるが、従来は「納期と予算を守って、とりあえずシステムを完成させればいい」と考えがちだった。HOWSでの経験から、「業務システムにも、ユーザーが使いやすく、使って楽しいと思わせる要素が必要だということが分かってきた」と口をそろえる。

 何気ない雑談に受講者を巻き込み、心の壁を取り払って気づきとやる気を生み出す。この過程で、庄司副社長のファシリテーション能力が大いに発揮される。音楽や写真、文学など様々な「感性」の分野に深い造詣を持つことに加え、以前は高校教師をしていたという経験も役立っている。

 「自分が発言したことに対して、上手にほめてくれるので徐々に自信がついていった。違う視点からのものの見方もさりげなく示唆してくれる」。大成建設情報企画部の川端敦子氏は庄司副社長のこんな支援に助けられながら、主体性や積極性を身に付けていった。部内でも一番若い川端氏は、入社以来「分からなければ誰かに聞けばいい」というやや他力本願の姿勢で仕事に当たってきたが、HOWSでの講習会で学んだ今は、新卒採用プロジェクトのメンバーとして積極的に活動し、多忙な業務の合間を縫ってホームページの整備などにいそしんでいる。