東北インテリジェント通信は、新潟と東北6県をサービスエリアとする東北電力を親会社に持つ電力系通信事業者である。2011年3月11日に発生した東日本大震災は、新潟を除く東北6県の通信インフラに多大な被害を与えたものの、2カ後の5月上旬には90%以上の復旧を成し遂げた。震災当時、非常災害対策本部を設置して陣頭指揮に当たった柴田社長に、復旧までの経緯と復興に向けた展開を聞いた。

(聞き手は加藤 雅浩=日経コミュニケーション編集長)

東日本大震災の発生から約2年たったが、当時の状況を改めて聞きたい。

1946年生まれ。仙台市出身。1969年、東北大学工学部卒業。同年4月、東北電力社入社。1999年、副理事土木建築部長。2001年、東北緑化環境保全の取締役社長に就任。2007年、東北インテリジェント通信代表取締役社長(現職)。趣味はスキー(一級)。好きな言葉は「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残るのは変化できる者である」(ダーウィンの進化論から)。(写真:尾苗 清)

 地震の揺れによる直接的な被害は軽微だったものの、津波による被害が甚大だった。当社のサービスエリアでは、新潟を除く東北6県で広域停電が発生した。144局ある通信局舎のうち、120局で商用電源が停止。14台あった移動電源車をフル稼働させたものの、58局がバッテリーの電圧低下で一時機能を停止した。沿岸地域ではアクセス回線用の光ファイバーケーブルが津波で流失。被災ケーブルの総延長距離は約560kmに達し、通信局舎も1局が流失、1局が床下浸水の被害に遭った。その結果、最大で約6000回線のサービス停止が発生した。これは全回線数(約1万8000)の約30%に当たる。

 一方で、各県庁所在地にある中心局を結ぶ基幹系の県間ネットワークは、優先的に移動電源車で対応したこともあって、機能停止することなく済んだ。これが、その後の早期復旧に役立った。実際、2カ月後の5月上旬には90%以上が復旧した。

前もって何か対策をしていたのか。

 当社の場合、日本海中部地震や新潟県中越地震を経験していて、電源の重要性は認識していた。今回の東日本大震災でも発生直後に非常災害対策本部を設置。私が陣頭指揮をとって、すぐさま広域停電への対応を行った。

 幸いしたのは、基幹系の県間ネットワークをOPGW(光ファイバー複合架空地線)で形成していたこと。OPGWは送電線鉄塔の上に設置された雷除けの線の中に光ファイバーケーブルを実装したもの。地震に強く、海から離れているので津波にも強かった。

 ただし、県内ネットワークは13区間で停止した。釜石、志津川、鹿島、相馬、富岡の5局で両系がダウンし、全くつながらなくなったからだ。そこで何としても片系を生かそうということで、津波被害のあった沿岸部から内陸部にルート変更する作業を急いだ。例えば釜石では、電力用の電柱が立つ前に、通信用の電柱を当社が立てて迂回路を形成した。

復旧作業において、ほかの事業者との連携、提携はあったのか。

 携帯電話の早期復旧を望む声が高かったので、携帯電話事業者各社と協力して、仮設の基地局に臨時回線を敷設した。ともかく通信手段を一日も早く確保することに努力した。

 また、PNJ(Power Nets Japan)で連携している電力系通信事業者から、復旧資材を送ってもらったり、あるいは人的な支援を受けたりした。

ユーザー企業の被害状況は。

 ユーザー自身が津波の被害に遭われ、電話しようとしても電話がつながらない、本社が東京にあるために東北の拠点の被害状況がつかめないといったケースが多数あった。当社としても、ユーザー設備の被害状況と復旧意向の確認に困難を極めた。

 そこで営業担当者を沿岸部に派遣して、ユーザーの現場がどうなっているかを確認することにした。この訪問調査に2週間をかけた。これが結果としてユーザーとの連携を強め、復旧作業の迅速化につながった。