米アレイコムは,携帯電話や無線ブロードバンドなどの無線通信に関連した技術の開発企業。特に複数のアンテナで送受信することで,周波数利用効率を向上させる「MAS」(multi antenna signal processing)と呼ぶ技術に力を入れている。アレイコムの創業者で会長でもあるマーティン・クーパー氏は,この技術を携帯電話やモバイルWiMAXに提供することで,今後起こる通信容量の問題を解消できると主張する。携帯電話開発の第一人者で,米モトローラに在籍していた1973年に世界で初めて携帯電話のデモンストレーションを行った人物でもあるクーパー氏に話を聞いた。

(聞き手は白井 良=日経コミュニケーション



以前から,携帯電話利用の高度化に伴って通信容量が不足するため,さらなる周波数の有効利用が重要になると主張していた(2001年の米上院委員会における公聴会資料)。現在でもこの問題はあるのか。


米アレイコムの創業者で会長でもあるマーティン・クーパー氏(左)
 ある。そもそも通信容量が足りることは絶対にない。携帯電話事業者は,新たな収益源の確保のために新しいアプリケーションを提供し続けるからだ。そのアプリケーションには一定の帯域が必要で,帯域にはコストがかかる。より多くの帯域を,さらに安いコストで提供できるようにしなければならない。

 コストをかけずに広帯域化するには,周波数利用の効率化が必須となる。しかし,残された効率化技術は限られている。周波数分割多重(FDD),時分割多重(TDD),符号化といった技術による効率化は既に利用済み。残されているのは,「OFDM」(直交周波数多重)と「空間多重」といった技術くらいしかない。このうち,OFDMによる効率化は「それなりの価値」というレベル。空間多重が最も効果的だと考えている。

 空間多重を実現するのが,我々が手掛けている「MAS」システムである。この技術は,「スマートアンテナ」や「ビーム・フォーミング」,「MIMO」(multi-input multi-output)などと呼ばれる技術をすべて含む。

具体的に,MASとはどのような技術か。

 複数のアンテナのアレイ(配列)を使って,通信する相手に電波を集中して送る。こうした技術を利用するメリットは大きく二つある。一つは,電波を送信する方向を絞り込むことで,電波をより遠くまで飛ばせる。そのため,一つの基地局でカバーできる範囲を広くできる。

 二つめはチャネルの再利用性が上がることだ。現在の携帯電話網では,同じセル内で1チャネルは同時に1ユーザーしかつかえない。電波は近接するセルにも届くため,通信するユーザーがいるセルだけでなく,近接するセルでもそのチャネルを利用できなくなる。そのため,電波の利用効率という面で無駄が多い。

 一方,MASシステムならば,同じセルで同じチャネルを2~4人が同時に使える。電波を送信する方向を絞り込んでいるため,近接セルに与える干渉,近接セルから受ける干渉も小さくて済む。基地局の置局設計を簡略化でき,低コストでネットワークを設計できる。

 ただし,一言でMASシステムといっても様々なものがある。今回は基地局に実装するものを説明したが,端末だけに実装するシステムや,端末と基地局が連携するシステムもある。それぞれで利用できる機能や効果が異なる。

採用例はあるのか。

 日本のウィルコムが提供するPHSサービスで採用してもらっている。これは,商用サービスにMASシステムが採用された最初の事例だ。

 PHSサービスは1995年から始まったが,導入当初は深刻な通信容量不足の問題が起こっていた。そこで,我々はDDIポケット(現ウィルコム),京セラとともにMASシステムをPHSに導入する共同開発を行った。その結果,97年に京セラがリリースした新しい基地局は,通信容量を95年に比べて3倍に向上させた。

 その後,MASシステムのアルゴリズムを改善して通信容量をさらに3倍にした。95年の導入当初から比べると9倍になる計算だ。それから数年後に,容量をさらに2倍にした。現在においても,PHSはさらなる強化と発展を続けている。

 PHSへの実装を通じて,MASシステムの実力を商用ネットワークで学ぶことができた。この経験は非常に大きかったと思っている。

アレイコムは今後,誰に何を提供していくのか。

 携帯電話やモバイルWiMAX機器のベンダーに対して,MASシステムを制御するためのアルゴリズムを実装したソフトウエアを提供する。

 特許をライセンスするようなビジネスをするつもりはない。MASシステムのアルゴリズムは一つではなく,複数の技術の集合体だからだ。例えばPHSでは,1秒当たり200回の頻度で通信環境に応じた最適化を行う。この際,最適化するのはパラメータだけではない。アルゴリズム自体を毎回8種類のなかから選択する。また,HSDPA端末向けのMASシステムでは,31のアルゴリズムから選択する。

 我々のビジネスモデルは,こうした技術で最先端を行き,機器を導入する通信事業者にとってベストのMASシステムを構築することだ。

機器ベンダーのなかには,MIMOやビーム・フォーミングを手掛けるとしている企業もある。競合になるのか。

 確かに,MASシステムと競合する可能性がある技術を手掛ける企業はある。ただ,多くは早期段階の技術で,我々と競合するほど成熟した技術とは認識していない。

 我々は,400を超える特許技術と,PHSを通じて得た実践的で豊富な経験を有している。実験室ではなく,実際の商用サービスで動いているということが重要である。この経験値が大きな財産になっているのだ。