2013年5月、商用の量子コンピュータが開発・販売された。カナダD-Wave Systemsの「D-Wave Two」だ。まだ数十年は先と思っていた技術が製品化されたのは衝撃的である。

 D-Wave Systemsに採用している技術を問い合わせたところ、「量子アニーリング」の仕組みを使っているとのこと。これまで量子コンピュータとして研究されてきた「量子ゲート」方式とは全く違う方式だ。説明によると、汎用的な計算処理をするコンピュータではなく、組み合わせ最適化問題を解くのに絞った製品のようだ。組み合わせ最適化問題とは巡回セールスマン問題のような、数学でいうところの「NP困難」と呼ばれる問題である。特に人工知能や科学技術計算ではこうした問題を解く必要が出てくる。

 ちなみに量子ゲートとは、従来のコンピュータの論理回路を量子力学の原理で置き換えるもの。「0」「1」で1ビットを表現してきたデジタル回路と異なり、量子力学によりM個のキュービット(量子)で2Mの状態を一度に計算できる。キュービットが増えると計算能力が指数的に増えていくのがポイントで、実現できればこれまでのスーパーコンピュータなど比較にならない超高速計算が可能になる。

 量子コンピュータ用のアルゴリズムは多数研究されており、素因数分解も高速に解けるといわれている。世の中に広まっているRSA暗号の安全性は「非常に大きな数の素因数分解が現在のノイマン型コンピュータでは現実的な時間内には解けない」ことに依存している。だから、もし量子ゲート方式の量子コンピュータが完成したら、素因数分解の困難性に頼っているSSL(Secure Sockets Layer)通信の暗号は容易に解読されてしまう。

 しかし、実際に量子ゲートを実現するのは難しい。不安定な量子の状態を確実に制御するのは並大抵ではなく、まだ実用化できるレベルにはほど遠い。そこでD-Wave Systemsは組み合わせ最適化問題に用途を絞り、難しい量子ゲートを用いない方式を採用したのだろう。量子ゲート方式ではないので「D-Wave Twoは量子コンピュータではない」といった議論が起きているが、従来とは全く異なる仕組みのコンピュータを作ったD-Wave Systemsの功績は称賛されるべきだ。

 仕組みが違うのでD-Wave Twoではすぐに素因数分解ができるわけではない。今のところRSA暗号は安心だ。量子ゲート方式のコンピュータの実現はまだ当分先のことである。

 量子力学という少し別の分野の研究がコンピュータサイエンスに大きなインパクトを与えようとしている。これまでのコンピュータの限界を超えるのは、理論物理学者かもしれない。うれしいことに、基礎技術研究の分野では日本人が大いに活躍している。量子アニーリングの手法は東京工業大学の西森秀稔教授らが考案したものだ。今年8月には東京大学の古澤 明教授らが完全な光量子ビットの量子テレポーテーションに成功したと発表している。これらは量子ゲートの実現に向けた大きな研究成果である。

 物理学者たちの知恵と努力に心から敬意を表し、大きな活躍を期待したい。企業システムに影響を与えるのはまだ先のことと思われるが、そのときの影響の大きさはとても大きなものであると知っておきたい。

漆原 茂(うるしばら しげる)
ウルシステムズ 創業者兼代表取締役社長。2011年10月よりULSグループ代表取締役社長を兼任。大規模分散トランザクション処理やリアルタイム技術を中心としたエンタープライズシステムに注力し、戦略的ITの実現に取り組んでいる。シリコンバレーとのコネクションも深く、革新的技術をこよなく敬愛している