今回は、iPS細胞を取り上げたい。さて、このiPS細胞、ITプロフェッショナルとどんな関係があるのか?順に説明して行こう。

iPS細胞のスペル分かりますか?

 まずは、iPS細胞について解説しよう。3文字略語には慣れているIT業界だが、iPSの正しいスペルをご存じの方はどのくらいいるだろうか。この3文字は、induced Pluripotent Stem cellsの略称で、日本語では人工多能性幹細胞という。どうも、略語を平たく並べただけでは意味が分かり難いのは、どの業界も同じのようだ。

 身近な例から想像していただきたい。例えば、手に切り傷を負ったとしよう。切り傷はやがて閉じ、殆どの場合は痕もわずかで治ってしまう。その切り傷が治る過程で、傷口から心臓が生えてきたり、目玉が出てきたりはせず、皮膚は皮膚として治るのである。

 これは当たり前のようであり、不思議なことでもある。なぜなら、人間が生まれる一番最初は精子と卵子からできる受精卵、つまりたった一つの細胞だからだ。この一つの細胞は分裂することで数を増やす、そして分裂を繰り返す過程の中で、皮膚になったり、心臓になったり、胃や腸になったりするのである。

 ここで分かるのは、細胞は当初は様々な臓器になる能力を有する(=多能性)が、ある臓器の細胞として特化した後は特定の機能を有する細胞にしかならない、ということだ。同様に、分裂する能力にも変化が起こる。皮膚の細胞は怪我をしてもある程度再生するが、例えば心臓は心筋梗塞などで細胞が死滅するような障害を負ったら細胞は元のようには再生しない。

 けが、病気、手術などで失った組織や臓器を元通りに修復することができたら――誰もが願うことだ。ここで、前述の「多能性」を有する細胞から特定の組織や臓器をつくることができないか、という再生医療のアイディアが出てくる。

 これを実現する手段のひとつとして、受精卵を活用する方法がある。受精卵はES細胞(Embryonic Stem cell)と呼ばれる。この細胞は、様々な組織・臓器に分化する多能性を持つが、倫理的な問題が伴う。生命の最初の状態ともいえる受精卵を他の組織・組織につくり変えたり、実験に使用したりしていいのか、他人の受精卵を自分のために利用していいのか、と言う問題だ。そこで、このような多能性を持つ細胞を人工的につくることができないか、ということがiPS細胞を誕生させる動機になったのである。

ネットで簡単にノーベル賞論文が読める時代に

 インターネットが便利にしたのは、普段の生活だけではない。本格的な、というより本物の学術論文に誰もが簡単にアクセスできるようになった。山中伸弥教授がノーベル賞を受賞するきっかけとなった論文は“Cell”という学術誌に2006年に掲載された“Induction of Pluripotent Stem Cells from Mouse Embryonic and Adult Fibroblast Cultures by Defined Factors”である。瞬時に本物に触れることができるのは、何とありがたいことか。

 論文の要約には、皮膚の細胞に四つの遺伝子(Oct3/4、 Sox2、 c-Myc、 Klf4)を導入することでiPS細胞をつくることができたことが記述されている。また、iPS細胞は、ES細胞と同様の形態を示し、ES細胞と同様の成長特性を示し、ES細胞と同様の遺伝子発現を示した、と説明されている。この論文では、ES細胞とiPS細胞を比較することによってiPS細胞がES細胞と同等の機能を有することを証明しているのである。それでは、具体的にどのようにしてES細胞とiPS細胞を比較しているのか、そして、それにITがどのように役立っているのか見て行こう。

 さて、ES細胞とiPS細胞との比較だが、前述のように原著論文には、形態、成長特性、遺伝子発現、という三つの視点が示されている。

 最初に「形態」であるが図1を見てほしい。図1にはES細胞(ES)、iPS細胞(iPS-MEF24-1-9)、皮膚の細胞(MEF)が示されている。ES細胞とiPS細胞とは似ており、そして両者は皮膚の細胞とは異なる、ように見える。確かに、ES細胞もiPS細胞も丸みを帯びて似た感じがするし、細長い形の皮膚の細胞とは形が違うように見える。しかし、あくまで、そう「見える」という域を出ない。

図1●ES細胞、iPS細胞、皮膚の細胞の写真 左がES細胞(ES)、中がiPS細胞(iPS-MEF24-1-9)、右が皮膚の細胞(MEF)
図1●ES細胞、iPS細胞、皮膚の細胞の写真
左がES細胞(ES)、中がiPS細胞(iPS-MEF24-1-9)、右が皮膚の細胞(MEF)
Cell, Volume 126, Issue 4, 663-676, 25 August 2006
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