最近、日本も訴訟社会になればよいのに、とよく思う。米国は訴訟リスクの国だ。企業も個人も、いつ何時、いかなることで訴えられるか分からない。企業の場合、顧客情報を活用し利便性を劇的に高めるサービスを出すと、プライバシー侵害だとして集団訴訟に持ち込まれたりする。例えばグーグルは、これまでいくつの訴訟を起こされたか分からないほどだ。

 それでも訴訟社会には“透明感”がある。衆人環視下での究極のディベートにより、白黒がはっきりついて、それがルールになるからだ。しかも判例が積み上がっていくので、新ビジネスに取り組もうとする企業にとっては、訴訟リスクは管理可能だ。逆説的な言い方だが、米国のイノベーションを生み出す風土は、訴訟社会によって担保されているという側面がある。

 それに対して日本では、訴訟リスクが少ない代わりに、グレーゾーンはいつまで経ってもグレーのままだ。この前、JR東日本がICカード乗車券「Suica」の乗車履歴データを、乗客に“無断”で外部に販売していたことで騒動になった。私は「個人を特定するものでないため問題なし」と考えるが、「プライバシー保護上で問題あり」とする人もいる。

 いずれにしろ、この話は決着がつかない。そして問題はその次だ。騒動を目の当たりにして、日本企業のビッグデータ活用の試みにブレーキがかかってしまう恐れがある。成果が上がるかどうかも分からないビッグデータ活用に、プライバシー問題の大きなグレーゾーンがあるならば、何も危ない橋を渡る必要はない。そう考える企業が多数出てきても不思議はない。

 「米国が訴訟リスクの国ならば、日本は風評リスクの国」。以前、ネット企業経営者からそんな話を聞いたことがある。日本では公の場で決着がつかないから、一度何かの場で“断罪”されると、管理不能な悪評となって広まり、いつまでも企業を苦しめる、というわけだ。

 だからと言って、「余計なことはやらないほうがよい」では企業の進化は止まる。ネット系以外の企業にとっても、ビッグデータ活用やネットマーケティングの重要性は高まっており、何もしないのなら確実に米国企業などに負ける。「日本も訴訟社会になれ」というのは暴論というよりも、そもそも不可能な話。だとすれば、企業はどうすればよいのか。

 これはもう勇気を奮って風評を味方につけるしかない。こっそりやらないで、利用目的を明確に説明することで顧客に安心してもらわなければならない。よく企業が間違えるのは、個人情報漏洩などが起こらないように安全に管理しているので大丈夫、と勝手に思ってしまうことだ。客観的に「安全」であっても、顧客の「安心」という主観にならなければ、必ず問題になりマイナスの風評へとつながる。

 そして重要なのが利用目的の“質”だ。企業である以上、最終的な目的はお金儲けである。ただ、そのために提供するサービスが画期的なものであるなら、顧客の利便性を劇的に高めたり、場合によっては世の中を変えてしまったりすることができる。顧客が新サービスにわくわくしてくれるのと、「自分の情報を金儲けのために使った」と思うのでは、雲泥の差である。

 グーグルやフェイスブックが訴訟に巻き込まれながらも強い支持を集めるのは、それがあるからだ。利用者に安心と感動を与える。その重要性は、訴訟リスクの国でも風評リスクの国でも変わるまい。