1950年代以降、ソ連への脅威を背景に、米国はソ連への監視体制を強化していきます。今回の投稿では、諜報手段が偵察機から衛星に移行する過程で、ロッキードなどシリコンバレーの一部企業が台頭していく様子がよく分かります。(ITpro)

 1949年のソ連初の核兵器実験と1950年の朝鮮戦争の勃発は、米軍と政治家の首脳部による冷戦へのパラノイア(偏執病)を煽りました。米国の諜報機関は、ソ連内部で何が起こっているのか調べる決心をしました。ところが、ソ連の秘密防衛は非常に強固でした。CIAは諜報収集に必死になり、ロッキードが製造したU-2機を、1956~1960年の間に24回も、ソ連の上空に侵入させ軍事基地の写真を撮影しました。

 しかし米軍は、U-2機がソ連の上空を飛び始めたときから、ソ連領土の上空からの諜報収集は、偵察機によるものではなく、数百マイル上空の軌道を飛ぶスパイ衛星からになるだろうと考えていました。

 現在シリコンバレーと呼ばれる場所にある一つの会社が、そのほとんどを開発しました。

兵器システム117L

 1956年、カルフォルニア州にあるロッキードは、サニーベール市のミサイル部門が米海軍からポラリス潜水艦搭載弾道ミサイルの開発を受注、ロサンゼルス市にある部門は米空軍から大陸間弾道ミサイル(ICBM)であるアトラスとタイタン、ミニッツマンの開発を請け負いました。

 米国とソ連が人工衛星を打ち上げる3年前の1954年、米空軍はランドという企業に対して、人工衛星が軍に果たす役割に関する調査を依頼しました。ランドの答えは、人工衛星は国境を越えて、ソ連の内部を偵察できるということでした。1956年には、空軍でICBMを製造している部門が、ソ連の領土を空からスパイする人工衛星群の開発を任されました。これらの人工衛星は、写真撮影偵察、赤外線ミサイル発射警報、エレクトロニクス諜報収集など種々の偵察活動に適応するよう構成されました。

 戦略スパイ衛星プログラムは、「兵器システム117L」(WS-117L)と呼ばれていました。