シリコンバレーの起源とされるショックレー・セミコンダクターの設立と同じころ、ロッキードのミサイル部門がシリコンバレーに移転してきました。ブランク氏は、1960年代におけるシリコンバレーの主役は、ヒューレット・パッカード(HP)でもショックレーでもなく、ロッキードだと言います。(ITpro)

将来は明確だ――マイクロウエーブバレーは永遠

 1956年当時、計測器メーカーのヒューレット・パッカード(HP)がシリコンバレーでは最大のエレクトロニクス企業であり、900人の従業員がいました。しかし、スタンフォード大学の応用エレクトロニクス研究所から勢いよく飛び出したスタートアップ企業は、マイクロウエーブ真空管やその他の部品に加え、完成されたエレクトロニクス諜報システムとエレクトロニクス戦略システムを米軍や諜報機関に供給していました。シリコンバレーの将来は明確でした。それはマイクロウエーブでした。

1956年に全てが変わった

 ところが、1956年に起こった二つの出来事が全てを変えました。当時はこの二つの出来事が、世の中を揺るがすことにも重大なことにも見えませんでした。まず、ショックレー・セミコンダクター・ラボラトリーが、シリコンバレーで初めての半導体企業としてマウンテンビューに事務所を開設したのです。そして、そこからほんの少ししか離れていないサニーべールのモフェット海軍飛行場に隣接した275エーカー(1.1平方キロメートル)の土地に、それ以降20年間、シリコンバレーで最も重要なスタートアップ企業となった、ロッキードのミサイル・システム部門が、南カルフォルニアのバーバンクから移転してきました。

サニーベールで核ミサイルを製造したロッキード

 航空機メーカーのロッキードは、海軍が開発した潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)である「ポラリス・ミサイル」を製造する主要下請業者として、ミサイル事業に参入しようとしていました。

 ポラリスは独創的で、米国が最初に固形燃料を使用したミサイルでした。固形燃料は、ミサイルを海上と水面下に運ぶ安全性の問題を解決し、加えて瞬時の発射を可能にしました。ポラリス潜水艦発射弾道ミサイルは、冷戦中に米国が備えた三つの核兵器(トライアド)の一つとなりました。トライアドとは、潜水艦発射弾道弾のポラリスのほか、B-52戦略爆撃機、ミニットマンとタイタンの地上発射型大陸間弾道弾(ICBM)です。

 ポラリス・ミサイルは、60万トンの核弾頭を装備し(ポラリスの後継版は、核弾頭を3台搭載しました)、各弾道ミサイル搭載潜水艦は16機のミサイルを搭載していました。米国は、このプログラムを開始して10年後に、41隻の弾道ミサイル搭載潜水艦、総計656台のロッキードのミサイルを製造し、航海させました(高さは28.5フィート=8.6メートル、重量は2万9000ポンド=1万3200キログラム)。ロッキードは、太平洋岸にあるサンタクルーズの近くに5000エーカー(20.2平方キロメートル)のミサイル試験所を購入し、シリコンバレーの山越えにテストを行いました。

 ロッキードは、10年間で備蓄分を入れて1000台近くのミサイルを製造したと推定されます。毎年100台、月換算では8台、週にして2台のミサイルが、モフェットフィールドから出荷されていたのです。