西海岸のシリコンバレーと東海岸の「ルート128」は、「現代の二都物語」としてビジネス書のタイトルにもなるほど対比される存在です。今回の投稿は、シリコンバレーよりも先に、ベンチャー・キャピタルが登場し、成功を収めつつあった東海岸の様子が描かれています。(ITpro)

 今回の投稿は「リスク投資」の台頭に関する記事の前編であり、リスク資金がどのように形成され、シリコンバレーの出現といかに密接に繋がっていたかを解説します。

アントレプレナーシップの積み木

 米国の東海岸と西海岸では、アントレプルナーシップの文化と環境の基礎が1950年代の半ばまでに形成されていました。スタンフォード大学とマサチューセッツ工科大学(MIT)は、第二次世界大戦中の技術革新を基にして、無尽蔵と思われるほど膨大な消費者経済と冷戦経済に、多数のエンジニアを卒業させ送り込んでいました。科学者とエンジニア、企業の3者のコミュニケーションは比較的開放的で、アイデアは自由に行き来していました。相互協力とアントレプレナーシップ精神の新しい文化が、生まれつつありました。

シリコンバレーにおけるアントレプレナーシップの最初の原動力
シリコンバレーにおけるアントレプレナーシップの最初の原動力
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 スタンフォード大学では、フレッド・ターマン工学部長が、同校で開発されたマイクロウエーブ真空管とエレクトロニクス諜報システムのプロトタイプを、外部企業が米軍のために量産することを奨励しました。既存の企業がそうした製品を製造することもありましたが、大学院生や教授が新しい企業を創業し、それらを製造することも頻繁にありました。

 1950年代半ばのこれらのスタートアップ企業の創業動機とは、危機感でした。冷戦の真っただ中にあった米国の軍と諜報機関は、早急に再軍備をしていたのです。

 1950年代と60年代に興った、マイクロウエーブとシリコンのスタートアップ企業ブームにおいて最も注目すべきことの一つは、それがベンチャー・キャピタル(VC)なしで生まれたことです。当時VCは存在しませんでした。1950年代にスタンフォード大学工学部からスピンアウトした企業の資金は、ターマン教授、スタンフォード大学、アメリカの軍部と諜報機関、そして防衛請負業者による緊密な融合と相互に絡み合った関係から得られました。

 これらのテクノロジー・スタートアップ企業はリスク資金を持たず、ただ行政/軍部/諜報機関などの顧客からの注文書だけがありました。

 以降の投稿では、「リスク資金」の台頭と、それがシリコンバレーの形成にどのように結びついたかについて説明します。