ブランク氏が著した「シリコンバレーの秘密の歴史」シリーズでは、これまでシリコンバレーの起源が、第2次世界大戦やそれ以前までさかのぼること、その中心人物がスタンフォード大学のターマン教授であることを紹介しました。今回は、彼がスタンフォード大学に研究所を新設したときの時代背景を記しています。(ITpro)

 今後数回のブログを通じて、ある大学教授が戦争から戻り、スタンフォード大学を次の戦争にかかわらせたという、これまで語られることのなかった壮大な物語をお伝えします。私たちが現在知っているようなシリコンバレーやベンチャー・キャピタル、アントレプレナーシップの基盤は、ここから偶然にも築かれたのでした。

 この投稿では、二つの異なった時期を説明します。最初は「マイクロウエーブ・バレー」の発展期で、スタンフォード大学がベイエリア(シリコンバレーの別称)で軍事と産業の中枢になった1946年~1956年までの時代です。

 もう一つは「スパイ衛星バレー」の発展期に関するもので、二つの大きな変革と共に1956年に始まりました。変革の一つは、皆さんもよくご存知のシリコンバレーの最初の半導体企業について。そしてもう一つは、極秘のうちに進行した、最初の光学および電子技術を活用した電子諜報(ELINT)向けスパイ衛星と潜水艦発射弾道ミサイルについてです。そして、1969年にスタンフォード大学で暴動があったところで話は終わります。

 今回のブログをよりよく理解いただくためには、これまでに掲載された「シリコンバレーの秘密の歴史」をお読み下さい。

熱い冷戦中に誕生したアントレプレナーシップ

 シリコンバレーのアントレプレナーシップは、ソ連との秘密の戦争の中で生まれました。この戦争のことをおそらくあなたは、聞いたこともないでしょう。と言うのは、そのほとんどが極秘であり、両国とも手に負えなくなることを恐れて、公開しませんでした。しかし、戦争ですから、何万人もの米兵が戦い、数百人が亡くなりました。

 スタンフォード大学工学部学部長だったフレッド・ターマン教授は、主要な武器供給源として、スタンフォード大学をこの戦争に積極的に参加させました。その結果としてターマン教授は、シリコンバレーにアントレプレナーシップを偶然にも立ち上げたのです。米軍とCIA(中央情報局)、NSA(国家安全保障局)がこの活動を支援しました。

マイクロウエーブおよび電子技術の中心としてのスタンフォード大学

 フレッド・ターマン氏は、軍事上秘密裏に立ち上げられた800人からなるハーバード大学のエレクトロニクス戦略研究所を運営し終えた1946年、工学部長としてスタンフォード大学に帰って来ました。ターマン教授の目標は、スタンフォード大学の電子工学部を、マイクロウエーブと電子技術に焦点を絞った最高学府にすることでした。第二次世界大戦で最も進んでいた電子研究所の一つを構築したターマン教授は、それができる、ごく少数の学術関係者の一人でした。

フレッド・ターマン氏
フレッド・ターマン氏

 ターマン教授の最初の取り組みは、ハーバード大学の無線研究所から11人のスタッフを雇い入れることでした。

「おめでとうございます。今からあなたは、スタンフォード大学の教員です」。

 彼らは優秀な研究者だっただけではなく、第二次世界大戦で利用された電子戦略システムを3年間かけて構築したメンバーでした。この人たちが、スタンフォード大学のエレクトロニクス研究所(ERL)の中核になりました。公式に電気工学部の所属となったERLは、ターマン教授にレポートしていました。

 次のステップとして、ターマン教授は以前培った軍部との関係を利用して、海軍研究所、空軍、陸軍信号部隊から新しい研究所に必要な資金を集めました。戦争が終わり、米国に平和が戻りましたが、軍の一部は、次の戦争への能力を保持したいと望んでいました。1947年までに、スタンフォード大学工学部の予算の半分は、米国軍部が出資していました。ターマン教授は、スタンフォード大学、MIT、ハーバード大学だけが、軍が支援しているエレクトロニクス・プログラムがあることを誇りにしていました。