このところグローバル人材を育成するという話題の中で、「教養」「リベラルアーツ」という言葉をよく聞くようになった。なぜそのような議論が起きているのか。そもそも教養などというものは、仕事に役に立つものなのか。スキルや技術とどのように異なるのか。はたまた、グローバル人材とはいかなる人材なのか。このあたりのことを考えてみよう。

東京農工大学大学院産業技術専攻 教授
松下博宣

 今回の記事のタイトルを見て、こんな感想を抱く読者は多いのではないか。

「技術者のオレには、教養なんて関係ないさ」
「教養科目なんて、大学時代に聞いて飽き飽きしたぜ」
「元気のない教授がぼくとつと語る教養科目には辟易した。いまさらゴメンだ」

 実は、筆者も学部を卒業して大学院に進む数年間は、教養のことを軽く見ていた。でも今は全く違う。そんなことを今日は書いてみたい。

 さて、教養とはいったい何なのか。古くは西洋社会の知識人の知的基盤を作ってきた自由文芸七科目(ラテン語でseptem artes liberalesという)から、旧制高校でよく読まれたデカンショ(デカルト、カント、ショーペンハウエルなどの哲学者)の系譜までいろいろある。しかし、大学では専門重視の考え方が幅を利かせてきたあたりから、教養の地位は芳しくない。むしろ目立って凋落傾向にある。

 この連載はインテリジェンスがテーマであるが、インテリジェンスの基礎のようなものが教養だ。

 では教養とは何なのか。一言で言えば、「自由にたくましく生きてゆくための、足腰がともなった知恵」のことだ。

人を自由にするための知識

 古代ギリシャに淵源する欧州の知的伝統の根幹をなすのは自由文芸七科目だ。哲学の周辺に発展してきた、文法、修辞学、弁証法、算術、幾何、天文、そして音楽という7つの学問を指す。

 ここでは余計なうんちくはやめて、自由文芸七科目の「自由」について考えてみよう。自由文芸七科目は「人を自由にするための学問」とされている。ここでポイントとなるのは「何から自由になるためのものなのか」ということだ。古代ギリシャ人は、労働からの自由を最優先した。転じて、「我が身を束縛する枠組み」からの自由となっていった。

 労働から解放されるために労働をする。労働から解放され、自由になるために、身を粉にして働き、自由になった暁には自由にものごとを考え、対話し、教養を深めていく。そんなライフスタイルが今でも、西洋知識人の系譜には連綿と流れている。

 現代の西洋社会でも、コンサルティングファーム、研究者、医師、公共機関の高級エグゼキュティブといった知的なプロフェッショナル達は、教養をベースとした対話に実に多くの時間を割いている。