筆者は仕事柄、工場用地などに利用される「開発区」の視察に出向くことが多い。これまでに十数カ所は見てきただろうか。主な行き先は、日帰りが可能な上海近郊である。

 これらはいずれも上海から高速道路を利用して2時間前後のところにある。東西南北を貫く舗装道路が整備された敷地は、以前は畑や水田だった場所だ。インフラこそ整備されているとはいえ、空き地があちこちに広がっており、見通しが良すぎるくらいに感じられる。

 このような開発区を売り込む中国側の担当者の常套句は「上海から近い」「高速道路が通っている」「近々、新幹線駅ができる予定がある」「空港ができる、または拡張される予定がある」「上海よりも土地代や人件費が安い」など。

 「予定」という不確定要素があるにせよ、どこでも似たり寄ったりである。特に上海を中心とする華東地区は、国家級開発区も省級開発区もほぼ横並び状態だ。

 このため、利用する企業が投資先を選択する決め手になるのは、開発区担当者の熱意や取引先企業との距離、労働力確保などの行政支援の充実ぶりといったところだろうか。こうした状況で日本企業を誘致するため、筆者の所属企業には各地の開発区の日系企業担当がしばしば訪れていた。彼らの雰囲気からは、開発区同士が火花を散らして外資誘致の競争を繰り広げていることが読み取れた。

 それが最近は、当社を訪れる開発区担当者が少なくなったように感じていた。「日本からは景気の良い話が聞こえてこないし、営業に来なくなったのだろうか。あるいは日本側の大口投資が一段落ついたのかもしれない。現に筆者の側から紹介できる案件は減っているし…」などと考えていた。

「1カ月後の契約では間に合わない」

 しかしそんなところに、日中経済貿易センター上海事務所の池田稔所長から少々驚く話を聞いた。上海周辺の開発区は土地が逼迫してきているのだそうだ。

 中国の外資誘致には「投資密度」という言葉がある。1平方メートル当たりの最低投資額を設定し、それ以下ならば企業側にご遠慮を願うという仕組みを指す。この仕組みにより投資の効率化を図っているのだが、最近では上物を借りる「標準廠房」と呼ばれるレンタル工場にまで、投資密度が適用されるようになってきているという。

 本来の標準廠房は、土地と建物の取得・建築には資金や規模の面で難しい企業が、小規模に始めるために適した仕組みである。ところが最近は投資が急増しており、標準廠房も不足してきているという。ある程度の企業をふるいに掛けるために、このような方法を取っているわけだ。

 また、池田所長がある日本企業の担当者と開発区を視察した際の話も強烈だった。視察を終えた後に開発区担当者から、「1カ月後に連絡をいただくのは結構ですが、もうその時にはこの物件は予約済みになっているでしょう」と言われたそうだ。

 これは日本企業によく見られる契約プロセスを牽制した発言といえる。日本企業の場合、決定権を持たない担当者が現場を視察し、現地の情報や交渉条件を仕入れて日本に報告。その情報を基に日本側で会議に諮って最終決定するという手順をたどることが多く、時間がかかりがちだ。

 以前ならば相応に余裕のある対応をしてくれる開発区があったが、今やこうした牽制を入れるようになった。日本企業だけでなく、世界各国の企業や中国国内の企業が開発区の土地建物を確保しようとする勢いが増しているためらしい。

売り手優位で選択誘致へ

 統計で確認すると実際、日本の対中国投資は最近になって一段と増えている。中国政府の商務部による外資導入関連の統計を確認したところ、2011年1-9月の外資全体の投資額(実行ベース)は、前年同期比16.6%増の866.79億米ドル。このうち、日本の対中国投資額(同)は同58.7%増の48.03億ドルに達した。

 単月度をみると1、2月はそれぞれ前年同月比24.0%増、12.4%増だったが、3月は単月で10億ドルの大台を突破し、いきなり同191.8%も増えた。それ以降も4月を除いて同32~96%増という勢いである。特に3月の東日本大震災以降に投資額が急増していることは偶然ではないかもしれない。こうした動きに気づかなかったこの半年以上の自分の不明を恥じ入るばかりだ。

 つい先日訪問したある上海近郊の開発区も、以前は農場であった一帯を2009年から整備を始めたところだ。地面の大半はまだ草に覆われ、一面の草原の中にぽつんと開発区の事務所が見える。その周辺にはようやく幾つかの工場と労働者住宅の建設が始まっているものの、実際の操業までにはしばらく時間がかかりそうな様子だ。少し遠くには、耕作地を手放した農民たちへの補償として建築された高層住宅がうすぼんやりと見える。

 まだ茫漠たる草原だ…と思いきや、実は既に工業用地の8割は誘致が完了し、標準廠房も現在完成した6棟はほぼ予約済み。新たに6棟分の建設を急いでいるという。さらに住宅地、別荘地、商業地も交渉が進んでいるとのこと。草地の上には札束が積み上がっていたわけだ。

 華東地区一帯では「外資歓迎、ぜひぜひどうぞ」の姿勢が続いたが、今後はしばらく貸し手優位の状況が続きそうだ。時代は「外資誘致」から「外資選択誘致」に変わりつつあるのかもしれない。


佐々木 清美(ささき きよみ)
 1969年生まれ。北海道大学経済研究科修士課程修了。卒業論文のテーマは「近代上海の下層労働力」。「文字化されない『老百姓(一般市民)』の生活ウォッチ」を続ける。
 日本総合研究所の中国法人である日綜(上海)投資コンサルティング有限公司などを経て、2012年2月から拓知管理諮詢(上海)有限公司のコンサルタント。