先日、ある日本人の元演劇関係者と話をする機会があった。彼は数年前、機会を得て中国の役者の卵たちと共に学んだことがある。
彼曰く「中国の役者はとても器用である」。言われたことを的確に、要求者が満足いくように演じることができる。だが、自由課題を与えられて演じろと言われたときは、先ほどまでの能力はどこへいったのかと思うくらい駄目なのだそうだ。結局、誰かのまねになってしまうらしい。
また日ごろは雄弁なのに、「どう演じるか」などの話題を振っても、全くといっていいほど語らなかったという。日本で有名な劇団に所属していた彼は「夜な夜な酒を酌み交わしながら演技論・演劇論を熱く語り合うのを期待していたのに、肩すかしを食らった気持ちになった」と振り返っていた。
中国の役者たちに要求されるのは確定したシナリオで監督や演出の意向に沿うように演じられること。聞き分けよく、使い勝手の良い役者が現場で認められるらしい。己の演劇哲学を主張することなど不要というわけだ。
厳しい情報統制
中国のアーティストやクリエーターについてこのような評判を聞くのは、実は珍しいことではない。ウェブ制作、デザイン、アニメなどの各分野の関係者に聞いてみても同じような話が多い。その背景を考えるならば、厳しい情報統制の存在に目を向けなければならない。
中国においては、テレビドラマ、演劇、映画、コンサート、アニメ、ゲーム、いずれも内容に審査が設けられ、自由な制作と発表ができない。無届けの発表は処罰対象になる。
テレビドラマについては、2010年7月1日からやや緩和された。ラジオテレビ映画総局が「テレビドラマ審査管理規定」を改正し「テレビドラマ内容審査規定」を施行したことにより、当局によるテレビドラマ計画立案段階での事前審査が無くなり、「届け出・公示」で済むようになった。
とはいえ「正しい文芸の指導方向を保証する」という名目の下、出来上がったドラマは放送前および再放送前に行政部門の審査を受けることが必須だ。並行して、テレビ局も自主審査する義務を負っている。
内容の審査は、11項目のストーリーの禁止事項に抵触しないかどうかという観点で行われる。憲法や法律違反を助長する内容、国家統一や主権を脅かすもの、国家機密漏えいや国家安全を脅かすもの、民族感情や民族団結を傷つけるもの、青少年の成長に害を及ぼすもの――などだ。
言語については地方の戯劇もの以外は普通語(標準語)をメーンとし、方言を使ってはならない。ドラマに出てくる指導者層は普通語を話さなければならないという約束まである。普通のドラマはテレビ局の自主審査だけで済むが、「重大革命ならびに重大歴史テーマ」がテーマのドラマについては共産党宣伝部も内容のチェックに加わる。
似たり寄ったりなものばかり
映画の制作事情も同様だ。多段階にわたる審査を経て、ようやく公表が許される。表現の自由が守られている日本およびほかの国から見れば、全方位がんじがらめで、なんともきつい制約だ。このような環境では面白いものが制作されるわけがない。似たり寄ったりで、画一的なものばかりが出来上がってくる。
「文化産業(映画制作・印刷出版・広告・ステージ・文化エキスポ・デジタルコンテンツ・アニメ)などの産業発展支援に力を入れ、『中国独特』のコンテンツを世界に売り込む」――。こんな華々しい内容の「文化産業振興計画」を中国政府は2009年9月に発表した。
産業振興大いに結構。GDP(国内総生産)成長率が高いだけに、財源は確保できるだろう。ただし多様化かつ自由な発想が期待されるクリエーティブ産業を担える人材が育つ文化的環境といえるかは疑問だ。
雑誌は海外との提携での制作が多い。テレビアニメも人気が高いのは外国ものばかりなので、国内での放映時間を制限している(本コラム「 中国の和製アニメ市場」参照)。コンサートで観客を動員できるのは香港や台湾といった海外のスターばかりだ。
産業振興計画を打ち出す一方、足元ではセル画の着色の下請け、映画の背景・セット提供、版下チェックといった文化産業の中の下流工程、労働集約的作業を海外から請け負う企業ばかりが目立っている。創造的な人材が増えてくるイメージは浮かびにくい。
アーティストやクリエーターが育ちにくい原因は、国の政策だけでなく、創造性の芽を大事にしない教育事情にもありそうだ。この状況が続く限り、中国の文化は世界レベルから取り残されてしまうことになるだろう。資金という水をいくら注いでも、痩せた土壌に果実は実らないのだ。
日本総合研究所の中国法人である日綜(上海)投資コンサルティング有限公司などを経て、2012年2月から拓知管理諮詢(上海)有限公司のコンサルタント。