田中淳子氏と芦屋広太氏によるヒューマンスキル往復書簡、とうとう今回が最終回です。「自分が主人公になってシナリオを作る」という芦屋氏の話を受け、常に「いま大切なこと」を選んで歩み、その思いを部下やメンバーに繰り返し伝えていくことの大切さを田中氏が語ります。(編集部)

芦屋さんへ

 「自分が主人公になってシナリオを作る」というのは、以前この往復書簡で触れた「自分で選んでいるんだ」という感覚に通じるなあと思いながら、前回の手紙(自分が主役となり、シナリオをみずから描く)を読みました。

 自分が主人公となるシナリオ作りは、一つひとつの仕事に取り組む際に限らず、仕事をする上で全体の核になるものだと思います。「自分が仕事をしている時に、何を大事にしているのか。大切にしている思いは何か」。私はこうした価値観についてよく考えます。

 「x年後にどうなりたいと思っているのか」。新入社員のころから、私はこの問いかけがとても苦手でした。若いころ、上司との面談では必ず「3年後はどうなっていたい?」「5年後は?」「10年後はどうなの?」と聞かれたものです。その時には、「はっきりいって、そんなことわからないよ」といつも心の中でつぶやいていました。

 と言っても、そのままストレートに答えると話が面倒になるに違いなかったので、その都度、思いついたことを抽象的な表現で伝えていました。「お客様に喜ばれ、仕事で指名されるような人になりたい」といった具合に。「何年後、どうなっていたいか」と自分の人生の先を見通すことを「ビジョン」と呼ぶのだということは、だいぶ経ってから知りました。

 芦屋さんは5年後、10年後の明確なビジョンがあって、キャリアを重ねてこられたのではないかと推察します。私は、今でも「x年後にどうなりたいと思っているのか」という問いがあまり好きではありません。「そんな先のことはわからないよ」と、相変わらず思ってしまうのです。

キャリアは「わだち」のようなもの

 では、何も考えずに仕事をしてきたかといえば、そうではありません。常に「いま大切なこと」を選択していたら、現在に至ったという感じなのです。

 「5年後、10年後にどうなっていたい」というビジョンを持たずに来てしまったことに多少、後ろめたい思いがあったのも確かです。でも、プロコーチでアスリートの支援でも有名な平本あきおさんの本を読んで、とても安心しました。

 平本さんによれば、人のキャリアには「ビジョン型」と「価値観型」の2種類があり、日本人は案外「価値観型」が多いのではないかということです。「何年後にどうなりたいですか?」と言われてもピンと来ないけれど、「何を大切にして生きていますか?」という問いにはちゃんと答えられる人のほうが多いということです。

 この考えを知ってから、私が格別ほかの人と違うわけではないと思えるようになりました。「いま大切なこと」をいつも選んで歩んでいると、結果としてキャリアが築かれるのだという考えは、私にはとてもしっくりきます。

 そういえば、キャリアの研究などで高名な金井壽宏さんの本を読んだら、「キャリアとは轍(わだち)のようなもの」という表現が出ていました。「後ろを振り返った時に、あそこは曲がっている、ここは停滞していると見返すことができるようなものだ」というのです。

 「いまの価値観」を大切にしながら仕事に取り組んでいくと、その結果がキャリアという轍になる。私の頭の中で、これらのことは全部つながっていきました。