決しておもねることのないエンジニア、渡瀬浩市。彼の秘書である高杉伊都子は、マネジャーとしての道を選択した渡瀬の友人、笹波武史。世界的企業の社長にまで上り詰めた笹波の陰には後に笹波の妻となる上司の秘書、小谷鈴帆の存在があった。2歳年下の鈴帆は、先鋭部隊のエースとして活躍していた笹波の評判は知っており、鈴帆の心の中にも笹波が存在していた。

 「いやいやいや、またまた参りました。この資料も全文英文ですね!」

 小谷が指さした分厚いキングファイルを前に、武市の悲鳴のような声が響いた。

 「だから、外資系だから当たり前じゃないか。そろそろ英文に慣れろよ、武市」

 「俺は高知の料理屋を継ぐのが嫌で東京で就職しただけじゃ。たまたまこの会社は371人も大量採用したから入社できたようなものだ。やっぱり、就職先を間違えてしもうたようじゃ」

 「武市君、入社して6年も経っているのに、まだそんな泣き言を言ってるの?ぐだぐだ言ってないで早くこの資料をビジコン部隊に届けなさい」

 「は、はい、了解しました」

 キングファイルを6冊ずつ抱えて、3人は部屋を後にした。

 「小谷さんって、南沙織に似てキュートですよね」

 キングファイルを抱えて、お尻でドアを閉めた長島二郎が武市に耳打ちした。

 「黙っていれば南沙織に似てチャーミングだが、物事をはっきり言うタイプだから、あれは気が強いな」

 南沙織は、1971年に『17才』でデビューした沖縄出身の当時の代表的なアイドル歌手である。

 「武市、声が大きいぞ。小谷さんに聞こえるじゃないか。裁縫ができる女性は最高じゃないか!外資系にいると逆に日本の良さが見えてくるものだ。小谷さんには凛とした日本古来の女性像を感じる」

 妙に小谷鈴帆を誉める笹波に気を取られ、武市と長島は互いにバランスを崩し、キングファイルが崩れ落ちそうになるのを必死で堪えていた。

 「鈴帆、どうしたの?さっきからため息ばかりついて、ちっとも食べてないじゃないの?」

 同期の八代弥生が鈴帆の顔をのぞき込んだ。コーヒーだけは口にしたが、ランチメニューのナポリタンは手つかずだった。

 八代弥生はワトソンシステムの広報部で、新製品のプレス発表から社内報までを担当していた。身長155センチ、明朗活発な性格で、そのイニシャルから「Y・Y」というニックネームがついていた。

 「笹波君のワイシャツのボタンを付けてあげたら、お礼に西新宿のフレンチに誘われたのよ。でも何か、こういうの苦手って感じ。たかがワイシャツのボタンを付けたぐらいで、フレンチに誘うなんて・・・。彼、年下だし・・・」

 「笹波君って、ビジコン部隊のエースでしょう。苦手って、笹波君が苦手なの?鈴帆って、物事を固く考え過ぎるところがあるわよ。お父様が高校の校長先生で、お母様が高校の英語の先生だから、きちんとしつけされているのは分かるけど、気持ちと反対のことを言うことがあるわよ。顔にはちゃんと『笹波君とフレンチを食べたい!』って書いてあるわ!」

 こうして、鈴帆は八代弥生に背中を押され、次の土曜日の夜、笹波と西新宿のフレンチで食事をした。それが笹波と鈴帆の初めてのデートだった。