決しておもねることのないエンジニア、渡瀬浩市。その友人である笹波武史は、マネジャーとしての道を選択した。渡瀬の秘書、高杉伊都子は、エンジニアをモデルにした小説を執筆するために笹波にインタビューした。渡瀬がかわいがっている中学生、金田京太郎と伊都子は、渡瀬の研究所を訪れたところ、笹波自身が現れ、自らの体験談を講義し始めた。研究に専念する渡瀬と、世界的企業の社長にまで上り詰めた笹波。京太郎は笹波のサクセスストーリーに興味を持ったようだ。

 「エンジニアとしてのマネジメント力とは、具体的には、技術者集団をマネジメントする力です。以前から私はマネジャーとして必須の能力は、何をおいても部下に対する『査定の正確さ』であると思っています。
 一般には、この辺が妙に軽視されているように思うのですが、まずこの力を養う必要性に迫られるはずです。なぜこの力が重要かというと、部下を道具のごとく扱う手法があらゆる面でナンセンスであることは周知の事実であり、部下の主体性が重要になってくるからです」

 「僕のパパも、ぎんが銀行の支店長として大勢の部下がいる訳ですから、支店長としての『査定の正確さ』が重要であるということですね」

 「そうそう、上司には上司の悩みがあるんだ。金田君のお父さんも同じ経験をしていると思うよ」

 あっさりと笹波は言った。

 「金田君の質問ですから、もう少し丁寧に説明しましょう。つまり、モチベーションの生成・維持が集団の良し悪しを決定します。中には好きで仕事をしているから、それは当たり前といった人も稀にいますが、一般にはモチベーションの維持には『信頼関係』がないと無理だと思います。自分から見て、上司が自分の仕事を正確に理解しているかどうかが鍵です。
IT産業においては、日々の成果が、例えば建築業のように目に見えるものではありません。背筋を伸ばしてキーボードを打っていれば誰でも仕事をしているように見えてしまうわけです。ソフトウエアの不備が“目に見える”ようになった時はもう重傷です。だからマネジャーは、部下を日々信頼するしかないのです」

 「おっしゃるとおりですね。確かに背筋を伸ばしてキーボードを打っていれば仕事をしているように見えますよね。友達に電子メールを打っていても、ばれませんよね。上司は部下を信頼するしかないですね」

 「信頼を必要としない様々なチェック方法がアカデミックには色々編み出されていますが、そういった技法は極めて限定された条件・環境の下でだけ成り立つ手法であり、かつ程度が大変に低いシステムしか生み出さないと私は思っています。
現場の人たちは日々、自分たちを上司はちゃんと見ているかどうかという点において上司を『査定』しているのです。信頼関係は相互の綱引きであるということを私は経験しています。よい意味で現場の人たちは、自分のためよりも仲間のために努力することに喜びを感じています」

 渡瀬はいつも表情を変えず、淡々と説明する。007を演じたショーン・コネリーの声の主として有名な若山弦蔵に似たセクシーな低音が、バッハの「無伴奏チェロ組曲」のように、私の頭の中で流れていた。

 京太郎も渡瀬の言葉を一言ももらさずメモしていた。

 「久しぶりに渡瀬節を聞いたな。渡瀬研究所に来るとマネジメントの原点まで考えさせられる。初心忘るべからずだな」

 笹波が頭をかきながら言った。

 「さっき笹波社長さんが、渡瀬所長と選択が正反対だからとおっしゃいましたが、どういうことですか?僕にはとても良い友達に見えますが」

 「私は『役員』を目指していました。役職が上に行けば行くほど世界中の人達との出会いがあるからです。
ワトソンシステムは幸い、役職や部門を越えた自由な社風がありました。フロアーも上司と部下の隔たりがなく、オープンになっています。ですから、ネットワーク技術のエキスパートになり、世界中の多くの人達と仕事をしたいと思ったんです。私の場合、『ネットワーク技術=世界中の人達との出会い』ということが楽しく思えたんですよ。生涯SEとして研究を重ねている渡瀬とは、正反対な生き方かな。Twitterもまだない頃の話です」