誰にもおもねることのないエンジニア、渡瀬浩市は、テクノロジーがもたらす価値を社会に還元するために、常に最善を尽くすという姿勢を貫いていた。一方で渡瀬の友人である笹波武史は、マネジャーとして外資系ベンダーの日本法人社長にまで上り詰めた。渡瀬の秘書、高杉伊都子は、エンジニアをモデルにした新たな小説を執筆するために、渡瀬から紹介された笹波にインタビューを申し込んだ。だた、笹波を紹介した渡瀬は、高杉の「二人は似ていますね」との言葉に、急に怒り出した。

 私の驚きに気がついた渡瀬は語気を緩めて、いつものようにゆっくり丁寧に語り始めた。

 「私は子供の頃、理論物理学者になりたいと思っていました。それも『封筒の裏で計算できる』物理学者に憧れていたのです。『タイムトンネル』で見たMT装置のような大きな装置を操ることを“かっこ良い”と思ったことは全くありません」

 「え? 渡瀬所長は理論物理学者になりたいと思っていらしたのですね!意外です」

 「大きな装置に頼らずに一人で宇宙を描く、つまり計算できてしまうことに大変な魅力を感じていました。特に代数学は得意でした。だから、高校時代に習わなかったルベーグ積分のように、面白い見方のものは独習するほど好きで得意でした」

 何気ない日常会話でも渡瀬の会話は相変わらず、大学の講義のようだ。

 「ルベーグ積分?」

 必死に私はメモを取っていた。そのときの私は、同じエンジニアでも渡瀬と笹波は正反対の考え方を持っているであろうことを感じ始めていた。

 赤坂ゴールデンヒルズホテル30階のスカイラウンジから見えるイルミネーションはまさに宝石のようだった。SEから社長に上りつめた笹波にとって相応しいロケーションである。

 「小学校3年の時『大人になったら何になる?』と問われて、『プログラマー』と答え、誰にも理解してもらえなかったことを憶えています。私自身、当時はSEという仕事を知りませんでした。『プログラマー』という単語はどこかで見かけた電子専門学校の入学案内で覚えたことを記憶しています」

 そこへ蝶ネクタイをしたウェイターがアイスコーヒーを二つ運んできた。

 「このラウンジではよく水割りを飲むのですが、きょうは小説の取材ですから、素面の方がよろしいでしょう」

 「すみません。本当に召し上がらなくてよろしいのですか?」

 周囲を見回すと、きちんとスーツを着こなした紳士とキャリアの女性がカクテルのグラスを傾けている。まさに007によく登場する、お洒落なラウンジを彷彿させた。

 「酒を飲んで取材に応じたら、渡瀬に怒鳴られますよ。取材が終わったら、ゆっくりやります」