決しておもねず、決して妥協せず--。誰にもおもねることのないエンジニア、渡瀬浩市は、ただひたすらにテクノロジーがもたらす価値を社会に還元するために、常に最善を尽くしてきた。一方で、渡瀬の友人、笹波武史はマネジャーとしての道を選び。外資系ITベンダーのトップにまで上り詰めた。渡瀬の秘書を努める高杉伊都子は、渡瀬の生き方を小説にしたこともあり、渡瀬とは異なる道を選んだ笹波に興味を持つ。伊都子は、笹波へのインタビューを申し込んだ。

 「あの頃、コンピュータは夢でした」

 ワトソンシステム日本法人社長の笹波武史は、東京・赤坂のゴールデンヒルズホテル30階のスカイラウンジから夜景を眺めながら言った。米国に本社を置くワトソンシステムは、IT業界において売り上げ規模世界ナンバー1になった企業である。

 目の前には東京ミッドタウンや六本木ヒルズの高層ビル街が広がっていた。笹波の眼差しは、その摩天楼を眺めているように見えるが、遠く北海道の少年時代を思い出していた。

 「小学生になった時、アメリカのテレビドラマ『タイムトンネル』が放映されていました。そこではMT(磁気テープ)装置が多数設置されていました。SF少年だった私の中には、そのころから『大きくなったら、電子計算機を扱える仕事がしたい!』という思いが芽生えていたのです」

 笹波は1982年に北法大学工学部経営システム工学科を卒業後、ワトソンシステムにシステムエンジニア(SE)として入社した。十数年間、SEとして働き、日本法人社長に上りつめた男である。

 私、高杉伊都子は、スーパーエンジニアの渡瀬浩市が開いている渡瀬研究所の秘書を務めている。経済日本出版社のWebサイトに、渡瀬所長をモデルにしたITビジネス小説を連載したところヒット作となり、エンジニアをモデルにした新たなITビジネス小説を執筆したいと考えていた。

 小説のモデルに相応しい優秀なエンジニアを紹介してもらうために、渡瀬にメールを出した。その1時間後、私の携帯の着メロ、カノンが鳴った。渡瀬からだった。

 「ワトソンシステムの笹波武史を紹介しましょう。笹波はいちエンジニアから社長になった男です」

 映画007を演じたショーン・コネリー。その日本語版の声優として知られる若山弦蔵に似たセクシーな低音が耳元で響いた。私は呪文を掛けられたように、しばらくその声に聞き惚れていた。

 「高杉さん、聞こえますか?」

 「は、はい!サザナミさんですか?」

 「いいえ、笹波(ササナミ)です。私から笹波に高杉さんのことをメールしておきますから、取材なさるといいですよ」

 「ありがとうございます。渡瀬所長が推薦して下さるエンジニアの方なら本当に優秀な方なんですね」

 渡瀬は、自分と同等の優れたエンジニアとしかつき合わない。相手のレベルが低いとなると口も利かない。だから、渡瀬が推薦する笹波は本物なのである。