戦後日本では「民主主義」は2つの意味で使われてきた。一つは国民主権、主権在民の理念である。もうひとつは代議制民主制の制度である。前者は揺るぎないが、後者はおそらく制度疲労に陥っている。実はこれは日本だけの問題ではない。ましてや政権交代や“ねじれ国会”だけが原因ではない。低成長・成熟社会の到来とともに、民主主義にもともと潜む矛盾が露呈しつつあるのだ。

民意との乖離が激しい「代議制」

 ギリシャの昔やスイスの一部では直接民主制が機能していた。日本でも古くは“寄り合い”が、そして今はマンションの管理組合や町内会に全員参加の直接民主制がある。だが何千万、億単位の人間の民意を直接吸い上げるのは無理だ。そこで間接民主制、つまり代議制が採用されてきた。つまり選挙をやって代議士を選ぶ。だが、この限界が露呈している。

 第1に直接「政策」に投票せずに、それを議論し決定する「代議士」を選ぶという段取りが迂遠である。しかも多くの場合、立候補者よりもはるかに有能な人が多数いるとわかっている。そして彼らは立候補しない。我々はそうとわかっていて目の前の限られた候補者のなかから“一番ましそうに見える人”に投票する。これはいわば消極的選択であり、決して愉快な経験ではない。

 最近はマニフェスト(政権公約)があるので、人物だけでなく政策パッケージとセットで選ぶようになった。だが、多岐にわたる政策課題すべてについて自分と意見がぴったり一致する候補者がいるとは限らないし、それを確かめるすべもない。要は「代議士」を選ぶこと自体に限界がある。

 第2に選挙は数年に一度しかない。つまり数年おきにしか民意は政治に反映できない。ところが現実の政策課題はめまぐるしく変わる。特に経済や外交はそうだ。車や家電製品、高級服なら4~6年のゆっくりした周期の買い換えでいい。だが政策はそういうものばかりではない。

 要は「数年おきに代議士を選び、彼らにすべてお任せ」という仕組みが、時代に合わなくなっている。

代議制民主制を補完する仕組み

 民意と代議制民主制のずれはどうしても生じる。そもそも民意は一様でない。だが支持率が2割を切るような政権がいつまでも続くのは明らかにおかしい。また地方議会では世論調査では多数の住民が支持する案が議会で否決されたりする。これも変だ。民意と議会のねじれを少しでも補正する方法が考えられないか。

 第1は住民投票である。自治体レベルでは原発建設などの是非をめぐる住民投票が行われてきた。イタリアなどでは国政レベルでも国民投票をよく行う。

 第2には政策案のすべてを議会の審議に委ねず、むしろ専門家による討議を重視する方法がある。かつての「経済財政諮問会議」はそうだった。昔からの「審議会行政」もこの一例だ。だがこの方法は下手をすると専門家と業界と官僚、一部族議員の癒着につながる。密室政治を招き、議会制度を骨抜きにしかねない。本筋は議員の中に専門家を見いだし、彼らが議会内の専門委員会で議論を行うということだろう。これが本来の政治主導の姿である。

 第3には世論調査の精度を上げ、その結果を広く公表する。そこから間接的に政府や議員に影響を与える方法がある。マスコミによる世論調査の結果がしばしば軽んじられる背景には、「大衆は政策の素人であり、課題の本質を十分理解せずに意見を表明している」「世論調査はマスコミの世論操作の産物」という見方があるからだ。だが悲しいことに議員の言動を見る限り、大多数の議員の能力は大衆とさほど変わらない(使命感や気概はさておく)。だとすれば議員とはまさに「代議士」にすぎない。大衆側が彼らに注文を出し、あたかも執事のように自由自在に使えばよい。

 具体的には「討議型民主主義」あるいは「熟議」という手法がある。これは公募した市民に集まってもらい、特定の政策テーマについて十分な情報を提供して議論してもらう。そのうえで政策の選択について賛否を問う。これによってマスコミによる操作や先入観を排した精度の高い世論調査ができる。世界各地で実験が始まっている。日本でも藤沢市役所や大阪維新の会(「熟議会」という)が始めた。こうして得られた成果は、従来の世論調査よりも信用が置ける。「討議型世論調査」ともいわれるゆえんである。

究極のアプローチとしての分権化

 議会と民意のずれを補正する究極のアプローチがもう一つある。それは個々の政策課題ごとに、そのテーマの特性に合わせた議論と意思決定の単位(場)を設けるという方法だ。特に有効なのは「地域」に委ねる方法だ。たとえば少子化対策の場合、あらかじめ市町村ごとに予算枠は決めるが、それをどう使うかは各市町村が自由に決めてよいとする。決め方も自由とする。住民投票にかけてもいいし、議会で決めてもいい。究極の“一国多制度”である。

 政策のテーマにもよるが、全国一律の制度決定をやめるだけで民意とのずれが補正できる。各地の住民たちが自分たちの身の回りの実態を念頭に置いて決定に参加するので、決定内容に対する当事者意識が出てくる。ひいては予算の費用対効果を真剣に考えるようになる。身近な政策判断に基づく決定だから、現実を踏まえた修正もしやすくなる。まさに民主主義の理念に根差した展開である。

 安全保障、外交、通貨など全国一律であるべき制度は、国会で今まで通り決めればよい。だが、国会でもなるべく分野別の委員会でじっくり議論する。そして予算委員会や本会議では、多岐にわたる細かな議論を広く薄く討議するという愚行はやめる。一方では国税の増税については面倒でも国民投票にかける。

 ビジネスには「適正商圏」というものがある。同じように政策にも適正な決定単位というものがあるはずだ。それを見極め、政策ごとに多様な選択、意思決定の方法を試せばよい。

 こうしていくと忙しい現代人にとっては、「民主主義」を維持するための手間や負担が増える。だが放っておいても税の負担は増えていく。ならばそろそろ代議士任せをやめて、自分で考える仕組みに移行すべきではないか。

 幸い、インターネットの出現で電子討議や電子投票ができる時代になった。ビジネスにおいても技術革新に伴って旧態依然たる旅行代理店や商社は排除されていく。同様に旧態依然たる代議士はもういらない。これからの民主主義を考える上ではわれわれが当たり前と考え、民主主義の前提としてきた代議制民主制のあり方を根っこから見直す必要がある。

上山 信一(うえやま・しんいち)
慶應義塾大学総合政策学部教授
上山信一




慶應義塾大学総合政策学部教授。運輸省、マッキンゼー(共同経営者)等を経て現職。「大阪維新の会」政策顧問、新潟市都市政策研究所長も務める。専門は経営改革、地域経営。2009年2月に『自治体改革の突破口』を発刊。その他、『行政の経営分析―大阪市の挑戦』、『行政の解体と再生』、『大阪維新―橋下改革が日本を変える』など編著書多数。