大学生の頃、明治時代の雑誌を古本屋で眺めていたら、「最近の若者」に対する苦言が載っていた。そこに記されていることは、自分たちの世代が言われている批判と、ほとんど同じ内容であった。礼儀知らずで、行儀が悪く、打算的で、冷たく、拝金主義で、目上を敬うことがない…。明治時代や昭和に限らない。実は「最近の若者は云々」といった批判は、古代エジプトのピラミッドにも刻まれているそうであるから、いつの時代も若者は批判の対象なのだろう。

 この言い方だけを借りて言えば、最近の学生はたいしたものだと思う。大学で講義を始めて以来、考え方でも技能でも、かつての自分たちよりもずっと上であり、それでいて素直であるから、学生というものはなんとかわいいものだろうと思い続けてきた。大企業に就職することもできるのに、あえて研究の道を進もうとしている芝駿介君という学生から動機を聞いたことがある。あえて研究に進むのはなぜかという疑問だけでなく、せっかく就職できる機会がもったいないし、翻意させるよう、なんとか説得できないかという思いもあった。しかし、人体の構造を調べることから、癌や痴呆症をいくらかでも防止したい、そうして人を助けられるような研究をしたいという答えが返ってきたとき、その高尚さに脱帽するとともに、ただ単に好きなだけで歴史の道に入っていった自分の研究態度を恥じた。自分の学問を世の中の役に立てようと思ったのは、それよりもだいぶ後、環境問題に取り組もうとしたときであった。

 もちろん、いつの時代にも例外はいるから手放しで称賛というわけにはいかないが、総じてたいしたものだと思う。東日本大震災直後に、学生たちが取った行動にも感心させられた。アルバイトで生計を立てているのに、乏しい財布の中から率先して義援金を出したり、進んで節電に取り組んだりしていた。復興ボランティアにも多くの学生が参加していた。こうした若者を批判できる年配者は、そう多くはいないのではないか。

 その復興ボランティアであるが、学生による多くのプロジェクトが組まれ、政府の対応よりも先行しているものもあるようだ。ただ、いかなることにも批判的な視点を忘れないような態度を取っていると、注文というか、欲深い気持ちが沸き起こってくるのを止められない。中央発の復興も良いのだが、長期にわたってその土地に住む人の役に立つ社会を作るには、その土地の人たちが中心になるのが望ましいのではないかという気持ちもあるからである。もちろん、疲弊してそんなゆとりのない人に対して、こんなことを言うのは酷かもしれない。外側から見ていた方が、客観的に見られるのではないかとも思う。しかし、歴史が示すところ、こちらが正しいと考え、良かれと思って行ったことが、本当に良かったとは言い切れないことも多い。自分たちが良いと考えることを強制して、元からあった生活を破壊し、その結果社会を破壊してしまった例は多い。

 復興の足を引っ張っているのが福島原発の事故であることには、多くの人が首肯するだろう。あの事故さえなければ、より多くの人力が投入できる。その半面、復興にはエネルギーが必要であるが、原発が稼働しなくては支援を送るべき関東地方がエネルギー不足で参っている。結局は、原発頼りのエネルギー体制を基本とすることが、中央行政府での現実的な意見として主流となる。自然エネルギーの小規模利用体制ならば、津波の被害からの回復も、修復と新規建設のみで放射能汚染などを心配する必要もなかったし、廃棄までを考えれば原発よりも安上がりで済むはずだ。津波の被害がなかった地域が、そうした発電装置や部品を作り、発電装置が設置されるたびに電力供給が回復していく。関東でも、そう考えている人はいる。しかし、どのような自然エネルギーを利用して、どのような形態で発電するかは、土地の人が中心にならなければ分からない。何が必要かも、復興した姿としてどのようなものが理想かも、もしかすると外の土地の人間が考えているのとは別なものなのかもしれない。提案はできても、それが正しいかどうかは土地の人しか分からないのである。いみじくも経世家・熊沢蕃山が、土地の古老の意見を聞きながらことを進めるべきだといった通りなのである。まして「現実的」と称して、原発を前提に復興を進めることが、真に地元の意見なのか、それとも原発がない場所に住む人の意見なのかは考えるべきであろう。