現場のモチベーションを高めるためにユニークな「仕掛け」を取り入れている企業事例を本特集では紹介する。

 まず企業事例の前に、モチベーションがどん底の状態にあったチームを短期間でよみがえらせた、あの熱血監督にきめ細かな指導哲学を聞こう。その談話からは「ほかの組織との間に風を通し、選手に周囲から見られている意識を持たせる」など、4つのアプローチが浮かび上がる。

 2004年11月に全日本男子バレーボールチーム監督に就任した植田辰哉氏。2008年、自身が出場したバルセロナ五輪以来16年ぶりの五輪出場にチームを導いた。五輪から遠ざかり、合宿初日には寝ぼけ眼で監督の前に姿を見せる選手がいるなど、モチベーションが下がりきっていたチームを、世界各国の強豪と戦える集団へと立て直した。

 植田監督といえば、北京五輪への出場を決めた2008年のアルゼンチン戦で、うつぶせで大の字になって喜びを表した様子が印象深かった。それ故、熱い男というイメージを持つ方が多いだろう。だが日々の練習では、熱血リーダーと冷静なマネジャーの顔を併せ持つ。故・松下幸之助氏など歴代の名経営者の著書に影響を受け、「ロジカルなチームマネジメント」「緻密な強化プラン」「コミュニケーション能力の向上」などを指導方針の骨子に掲げて選手たちを強化している。

 そんな植田監督は、勝負は「選手の能力」「情熱」「考え方」の積で決まると考える。世界の強豪との戦いでは能力差は紙一重。厳しくかつ緻密な練習を課して、選手たちの能力はもちろん、情熱や考え方も鍛え直した。

クラブチームと目指すべき方向をそろえる

植田 辰哉(うえた たつや)氏
植田 辰哉(うえた たつや)氏
1964年香川県生まれ。新日本製鉄(現堺ブレイザーズ)に入社し、日本リーグ(現Vリーグ)でセンタープレーヤーとして活躍。1992年のバルセロナ五輪では日本代表チームの主将として出場した。2004年11月に日本代表監督に就任。厳しい練習を課しつつ選手のモチベーションを高めることに成功し、2008年に北京五輪世界最終予選を突破。16年ぶりの五輪出場に導いた。出場権を獲得した直後にコートに倒れ込み、男泣きした。
写真撮影:北山 宏一

 「私が日本代表チームのキャプテンを務めていた時代には、代表に所属する責任感や誇りが強くあり、それがモチベーションの源泉となっていました。しかし長らく結果が出ないことで、選手たちからも彼らが所属するクラブチームからも、代表に対する誇りが薄れていました」

 2004年の監督就任当初、代表への誇りが薄れていることを象徴する言葉をクラブチームを支援する企業からぶつけられた。

 「『クラブチームは弱い代表チームに選手を貸してあげているんだ』という言い方をされたんです。代表選手を成長させ、結果を残してクラブチームに帰すことで、逆に『代表チームに送りたい』というクラブチームの監督が増えるようにしたいと思いました」

 そこで植田監督はまず、日本代表チームとクラブチームとの風通しを良くして、両者の一体感を強めることに努めた。

 「どうすれば、ベクトルを日本代表チームに集めていけるかを考えました。代表チームとクラブチームの考え方を合わせることから始め、クラブチームの監督を集めた会議を開き、五輪出場までのマイルストーンを説明しました。そしてこの会議で決めたことは共通の認識として進め、結果が出たら皆で祝いましょうと宣言したのです。幸いにも、すぐに2005年のアジア選手権で優勝を飾るという結果を出せました。それからはどんどん進められましたね。これはジャーナリストの二宮清純さんのいう『準備力』にも通じる話です」

 植田監督のいう「考え方」の強化は、組織のベクトルを合わせることに加えて、個人に社会人としての責任感や誇り、コミュニケーション能力などを持たせることも含む。アジア選手権に優勝すると、失われかけていた周囲の注目が再び代表チームへと集まり始めた。それを存分に生かした。「下は小学生から上はおじいちゃん、おばあちゃんまで皆が注目していることを、選手たちに強く意識させ、自覚を求めました。見られているという意識が自信や責任感を生み、それが情熱や考え方を鍛えることになるからです。どんなに能力が高くて強かったとしても、人間性や社会性が身についていないといけないと思います」