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 米国では、航空業界が1970年代後半に自由化され、次いで1984年のAT&T分割に象徴される電話業界の自由化が起きた。航空業界や電話業界に続くのが電力業界だという方向に向かい、1990年代の後半、電力自由化への動きが多くの州で活発になった。順調に自由化が進むかと思われた矢先、カリフォルニアで電力危機が起こる。自由化の流れが突如止まった。

カリフォルニアの電力危機

 自由化の波をせき止めたカリフォルニアの電力危機およびそれに伴う電力不足、計画停電は、2000年から2001年に掛けて起きた。その背景には、カリフォルニアでの自由化のやり方に問題があったと言われている。それは、発電の自由化は認められたが、小売りのレベルでは価格を含め規制を残したことである。

 自由化によって、カリフォルニアにあった大手の電力会社は発電所を売却し、自らは発電せず他社から買電することになった。しかも、電力会社の買電は長期の契約によらず次の日の電力取引市場でのみと規定された。長期の契約があれば買電の値段は安定するのだが、次の日の電力取引市場では価格が変動して安定しない。

 発電の自由化によって、新たな発電所が建設されるようになり、発電所間の競争が激化することで、電力の値段が下がって、サービスが向上するはずだった。これは公平な競争原理が働いたと仮定した場合だ。ところが、カリフォルニアではその道筋をたどらなかった。今となっては悪名高いエンロンを中心とした会社群が、自由化の盲点を突いて荒稼ぎに走ったためである。

 エンロンは、電力会社が売却したカリフォルニアの発電所を買収してそのオペレーションを手中に収めた。そして、卸しの電力料金を高騰させるため、人工的に電力不足を起こす。その手口は、発電量と送電量を削減して一気に供給量を下げることだった。

 まずエンロンとその一味は、調整や検査を行うという理由で支配する発電所の多くを停止させた。そのため発電力量が減少した。さらに送電網に対して、実在しない送電線使用のリクエストを激増させた。これらによって、需要と供給のバランスが完全に崩れた。送電線へのアクセスが困難となり、電力配送が滞った。目論み通り、カリフォルニア全体が電力不足に陥ったのである。

 既存電力会社が買電できる電力取引市場での卸値は、2000年内になんと800%も上昇した。もし、小売りまで含めた完全な電力自由化になっていれば、卸値の上昇に応じて小売りでの電力の値段も上昇するはずだった。ところが、小売りの値段は州公共料金委員会で規制されており、上昇することはなかった。これはカリフォルニアの消費者には救いだった。

 その結果、3つのことが起こった。1つは現在東日本で起きているような電力不足。もう1つは電力会社の倒産。3つ目は州政府や知事への不信と不満から、知事がリコールされたことだ。1つずつ見ていこう。

 まず電力不足。カリフォルニア州は連邦政府と連携してカリフォルニア内での発電量を増やしたり、他州から電力を買電しようとしたりしたが、間に合わず計画停電となった。計画停電というのは名ばかりで、前もっての警告が徹底していたわけではなかった。「停電する地域の順番は電気代の請求書に書かれた地域番号による」と説明されたが、普通の消費者は自分の地域番号を知らないし、どこに請求書をしまったかも覚えていない。筆者もそうだったが、多くの人が突然“計画”停電に襲われた。確か、計画停電は一度だけだったと記憶している。人々は世界一流と思っている自国でこのような停電が生じるとは信じられなかった。

 2つ目は電力会社の倒産だ。カリフォルニアには大手の電力会社が3つある。この危機の最中、PGE(筆者の地域独占電力会社)は買電と売電の値段の差でビジネスを続けるしかなく、負債が増加して倒産した。現在は倒産から立ち直っている。南カリフォルニア・エジソン(SCE)とサンディゴガス・電力(SDGE)はかろうじて倒産をまぬがれた。

 3つ目はこの不始末がその当時のグレイ・デービス知事のリコール選挙につながり、解任された。新しい知事を選ぶ選挙で、あのアーノルド・シュワルツェネッガー氏が選ばれた。停電の影響が社会やビジネスに与える影響は莫大なものである。このため、以後カリフォルニアの政治家は電力自由化に臆病となり、動きがストップしている。政治家はこの問題に関与すると自分の立場が危うくなるのを恐れるあまり、もう一度自由化を進行しようとしない。この影響はカリフォルニアだけではなく、ネバダやオクラホマ、アーカンソー、ニューメキシコ、モンタナなどの他州にも影響して、自由化の動きをストップさせている。