世界中の政府や大企業を敵に回し、ネット空間を舞台にした情報戦争を仕掛ける「ウィキリークス」。ジュリアン・アサンジ氏率いるこの非政府組織が、前代未聞の内部告発サイトを展開する狙いは何か。誰がどのように情報を漏らしているのか。なぜ、潰されないのか。気鋭の国際政治アナリストが空前の情報戦争を読み解く。

菅原 出/国際政治アナリスト

 かつてムガール帝国の首都として栄華を誇ったパキスタン東部の町ラホール。1月27日、この歴史ある町で米・パキスタン関係を揺るがす大事件が勃発した。

 人通りの多い混雑した交差点に1台のホンダ・シビックが停車した。その中にチェックのシャツを着て短髪の体格の良い白人レイモンド・デービスが1人で乗っていた。周囲に視線を配りながら信号待ちをしていたデービスは、対向車線を2人のパキスタン人がオートバイに乗って走ってくるのに気がついた。そのオートバイは急旋回するとデービスの車の前に躍り出た。後部座席に乗っていた男はピストルを手にしていた。

 デービスは携帯していたグロック・9mmセミオート・ピストルをさっと取り出し、ハンドルを握ったまま5発、そのパキスタン人に向けて発射した。後部座席に乗っていた19歳のパキスタン人ムハンマド・ファヒームが路上に倒れて即死。

 デービスはすぐに車から降りると、逃げ出したオートバイの運転手ファイザン・ハイダーに向けてさらに5発撃ち込んだ。ハイダーは30フィートほど走ったところで倒れ込み、即死した。後の検視結果によると、彼は正面から3発、背後から2発銃弾を喰らっていたという。

 デービスは車に戻ると、無線機で応援を呼び、死亡した2人のパキスタン人の写真を撮り始めた。

 「彼はとても冷静で何食わぬ顔をしていた。たった今2人の人間を殺したというのに、どうしたらこんな風にしていられるのかとたまげたよ」

 一部始終を目撃していたパキスタン人が英・『ガーディアン』紙のインタビューに答えてこう証言している。

 しばらくするとトヨタ・ランドクルーザーが猛スピードで現場に近づき、付近でオートバイを運転していた別のパキスタン人を引き殺し、猛スピードで逃げ去った。このランドクルーザーが逃げ込んだ先は、なんとラホールの米総領事館であった。

 まるで映画007シリーズか「ボーン・アルティメイタム」の一シーンのような出来事だ。ただ映画と違うのは、ランドクルーザーは米総領事館に逃げ込んだものの、2名を射殺したデービスが、逃走中にパキスタン警察に逮捕されたことである。

謎の多いラホール事件とレイモンド・デービス

 レイモンド・デービスは36歳の米国人で、外交官パスポートを所持していた。米政府はただちにパキスタン政府に抗議し、オバマ大統領自ら「われわれの“外交官”をすぐに解放するように」との声明を発表した。しかし、デービスの肩書や職務内容に不明な点が多かったこと、彼が犯した「犯罪」の深刻度、それにパキスタン国内で膨れ上がる反米感情が相まって、この問題は複雑に発展していく。

 問題の1つは、当初米国務省が、デービスを「在ラホール米総領事館のスタッフ・メンバー」だと発表したことだった。同省は数日後に慌てて「在イスラマバード米大使館の管理及び技術スタッフ」だと訂正した。この肩書の違いは、デービスの処遇にとって決定的に重要だ。

 もしデービス氏が「大使館の管理及び技術スタッフ」であれば、彼は1961年の「外交関係に関するウィーン条約」に基づいて完全な外交特権が適用される。つまりこの場合、パキスタン政府はデービスを国外追放にすることしかできない。

 しかし、もし彼が「在ラホール総領事館のスタッフ」である場合、総領事館職員の権利を規定した1963年の「領事関係に関するウィーン条約」の対象となり、この場合、「当該国」すなわちパキスタンが、「重大な犯罪」を犯した総領事館職員を起訴することができる。

 これに加え、デービスの素性とその行動が問題視された。デービスは通常外交官が通らないようなラホールのエリアを1人で運転していた。しかも、グロック9mmピストルを不法に所持していただけでなく、弾丸75発、カッター、GPS機器、赤外線懐中電灯、無線機、望遠鏡、デジタル・カメラ、航空券、携帯電話2つ、それに白地小切手を所持していた。とても普通の外交官とは思えない代物ばかりだ。

 しかもデジカメには、インドとの国境沿いにある立入禁止区域の政治的に繊細な施設が多数収められていたという。

 「彼は単なる外交官ではない」事件発生直後からそんな見方がメディアを通じて出されていた。