恐ろしい光景であった。津波が町を飲み込んでいくのに、思わず息を飲んだ。平和だったこの国に、未曽有の災害が襲いかかったのである。この世の地獄とは、このことかと恐怖を感じた。誰もが同じ思いだったろうが、津波に追われて逃げる人の姿に「早く!早く!」と心の中で叫び続けた。ディープエコロジーは自我の拡大をめざす。車にひかれそうになった我が子の前に母親が飛び出すとき、母親の自我は我が身を越えて子供にも覆っているのである。同じように、多くの人が、被災地の人たちと自我を一つにしようとしている。

 私が住んでいる地方も、残念ながら被災地の仲間入りをしている。停電だけでなく、断水もかなりの期間続き、一時は都市ガスの供給も止まり、1000人近い人が避難した。常磐線は遮断され、地震発生時に都内にいたため、大変な思いをして戻ったのだが、家の中は想像以上であった。タンスは倒れ、ガラスは割れ、散乱した本の上に、押し入れの中のものがあふれ出し、足の踏み場もない状態。それでも書庫よりはましで、書庫の方は扉も開けられない有様となっていた。震度4くらいなら、びくともしない書庫であっても、さすがに震度6ではどうしようもない。何から手をつけていいかも分からない心持ちから出発したのだが、本格的被災地と異なり、火災も倒壊も起こっておらず、津波に飲み込まれたわけでもなかったし、幸いパソコンも無事であった。なににもまして、帰路ひたすら願った母は無事であった。

 戻ったときの市内は信じられないほど静寂で、給水を知らせる町内会のアナウンスと、上空を定期的に飛ぶヘリコプターの音のみが響いていた。地元の町内会では、有志が水の配給をしながら、独居老人のところには直接赴いて安否の確認をしていた。断水とガス供給の停止を受けて、ボランティアによる炊き出しが見られた。道を歩いていると、歩道に亀裂が入り、大きな体育館の屋根が破れているのに気がつく。

 そんな中で、人の情けばかりが身にしみてくる。途中駅まで運行した超満員電車で、けんかどころかお互いに譲り合いがみられた。隣に立っている女の子たちが話している言葉が印象的であった。「地震が起きてから嫌な人に会ったことがない。皆、いい人しかいなかった」。夜間、周囲の家々、見渡す限りが薄明かりの中にいる。どの家も一間だけ灯りをつけているのだ。ごく一部のラブホテルとパチンコ屋のみはネオンをつけていたが、大概の家は節電に協力している。この薄明かりの町並みは、どんなにぎやかな照明よりも美しく見える。あたかも「ともに耐えよう」とささやきあっているように。

 すべての人が堪え忍ぶのが当たり前という状態で、通常通りの営業をしている遊興施設に批判が集まるのは当然だが、「批判を許さないという姿勢は、全体主義だ、ポピュリズムだ」という批判を、したり顔で述べる学者が出るのだろうなとも思ったりしている。多様な価値観を否定して、一元的な熱狂や価値観の押しつけを恐れるのは正しい態度かもしれないが、そういうことを言う人は大体は被災していないのだ。やるべきことを率先垂範する人の発言であってこそ、その価値は高い。