毎年、クリスマスが近づくと、「日本人は宗教的に節操がない」と、眉をひそめ、あるいは眉間にしわを寄せ、たいそうな渋面をしながら憂いる人たちが増えてくる。ナチスのスローガンは「一つの民族、一人の指導者、一つの国家」であったが、さしずめ「一つの民族、一つの宗教、一つの国家」というわけだろうか。日本にはあまりいない宗教的原理主義者なら言いそうなセリフである。というのも、まじめに宗教を信じるというなら、原理主義者など最右翼になるのだろうから。

 そうした批判を無視するかのように、世間ではクリスマスが終わると、何の未練もなく年末に向けて世の中が動き出すわけで、今度は除夜の鐘を鳴らすお寺と、初詣の神社が活躍する番となる。クリスマスやお歳暮をめぐる商業主義は知ってはいても、幼い日の華やいだ気分が思い出され、この時期には、それなりの懐かしさも覚えるものがある。だいたい、仏陀が言ったとしても、キリストが言ったとしても、良い教えならば共通して守ればいいはずで、区別する必要などないのではないかと思うのだ。困っている人を助け、人を殺したり傷つけたりすることが悪いとみなすのは諸宗教一致しているわけで、異教徒だからどうのこうのではない。『聖書』の「ルカ福音書」の中のある「善きサマリア人」の話から推測すれば、キリスト自身もそう思っているようなのだし。

 実は、私もかつては「日本人は宗教的に節操がない」ことを憂いる人間の一人であったから、なおさらそうした思いを強くするのかもしれない。それが、「宗教的節操がない」ことが実は良いことなのではないかと、考え方が一転するのが高校生の時、芥川龍之介の『神神の微笑』という文章に触れてからである。

 物語は安土桃山時代。日本に布教に来ていたバテレンのオルガンチノが、説明のできない漠然とした不安にとらわれることから始まる。その不安は言葉で表現できない。信徒は何万人かを数えるほどになり、首府のまん中にカトリックの寺院が建っている、風景は美しく、気候は温和であり、人々の気質は親しみやすい。すべては順調に見えるのに、不安で仕方ない。そこに、その不安を象徴するような老人が現れるのである。老人は日本語の文字について語ってみせる。若干長いが引用してみる。

 「孔子、孟子、荘子、――そのほか支那からは哲人たちが、何人もこの国へ渡って来ました。しかも当時はこの国が、まだ生まれたばかりだったのです。支那の哲人たちは道のほかにも、呉の国の絹だの秦の国の玉だの、いろいろな物を持って来ました。いや、そう云う宝よりも尊い、霊妙な文字さえ持って来たのです。が、支那はそのために、我々を征服出来たでしょうか?文字を御覧なさい。文字は我々を征服する代りに、我々のために征服されました。私が昔知っていた土人に、柿の本の人麻呂と云う詩人があります。その男の作った七夕の歌は、今でもこの国に残っていますが、あれを読んで御覧なさい。牽牛織女はあの中に見出す事は出来ません。あそこに歌われた恋人同士は飽くまでも彦星と棚機津女とです。彼等の枕に響いたのは、ちょうどこの国の川のように、清い天の川の瀬音でした。支那の黄河や揚子江に似た、銀河の浪音ではなかったのです。しかし私は歌の事より、文字の事を話さなければなりません。人麻呂はあの歌を記すために、支那の文字を使いました。が、それは意味のためより、発音のための文字だったのです。舟と云う文字がはいった後も、「ふね」は常に「ふね」だったのです。さもなければ我々の言葉は、支那語になっていたかも知れません。これは勿論人麻呂よりも、人麻呂の心を守っていた、我々この国の神の力です。のみならず支那の哲人たちは、書道をもこの国に伝えました。空海、道風、佐理、行成――私は彼等のいる所に、いつも人知れず行っていました。彼等が手本にしていたのは、皆支那人の墨蹟です。しかし彼等の筆先からは、次第に新しい美が生れました。彼等の文字はいつのまにか、王羲之でもなければ遂良でもない、日本人の文字になり出したのです。しかし我々が勝ったのは、文字ばかりではありません。我々の息吹きは潮風のように、老儒の道さえも和げました」(芥川龍之介「神神の微笑」『奉教人の死』新潮社、2001年)。