現在、地上テジタル放送用テレビへの切り替えが進み、アナログテレビは2011年7月に見られなくなる。難視聴対策やB-CASの意義など様々な問題を抱えながらその日に向かっているが、一つ大きな視点が抜けているように思う。地デジへの移行は、アナログテレビという大量の廃棄物を短期間に生み出すという視点である。

 現在、アナログ放送を受信しているテレビもアンテナも、すべて視聴者の負担である。各人購入したものが持ち主の意志にかかわらず使えなくなるのである。白黒テレビのときは、カラーテレビに移行してもテレビ自体をそのまま使い続けることはできたので、その移行は視聴者の都合で進めることができた。一方、地デジの場合は放送開始からアナログテレビの放送終了までわずか7年半(すべての都道府県庁所在地が視聴可能エリアとなった2006年12月からだと4年半)で、チューナーを別途購入しない限りテレビ自体が使えなくなってしまうのである。極論すれば、国民の私有財産を有無も言わずに失わせて、廃棄物にしているとさえ言える。

 テレビの買い換えやチューナーの購入を自己負担での強制するとは、「いかにお上とはいえ、あまりに無体な」と言いたくもなる。ようやく一部にはチューナーの支給を始めるようだが、個人の持ち物であるテレビを、勝手な都合で使えなくさせることへの対策は、他人の子供に税金が使われる「子供手当」や、農地を持っているだけで金がもらえる「個別保証」のような、不平等なばらまきよりも、考え方としては妥当性が高いのではないだろうか。

 そもそも地デジについては環境的には問題が目に付くばかりで、画質が良くなる以外の効用が分かりにくい。かろうじて「資源」という言葉で説明されているのは、電波の効率的利用ということである。デジタル化により、周波数が3分の2になる。その空いた分を携帯電話サービスの充実、ITS(高度道路交通システム)、災害時の移動通信システムなどに利用するということだ。だが、これらの受益者は必ずしもテレビの利用者とリンクするわけではない。高画質も双方向機能も不必要と言われれば、地デジとアナログは視聴者の選択にしなければならないというのが、本来の筋である。

いびつな「エコ」

 昨今の社会状態は、世を挙げて「エコ」を叫びながらも、実態は「地デジ」が象徴するように、本質的な矛盾を抱えているように見える。国際語ともなった「MOTTAINAI」の大本の国ながら、日本では「エコ」がいびつな形で使われており、それを正しく実践している気がしない。エコカーなどもその典型だ。

 別にエコカーが悪いのではない。基本は良いことである。本来、こうした製品の開発がもっと進むべきであり、一般的な需要がこうした省エネ方向に向かっていくのは良いことである。またエコカーは一方的な押しつけではなく、自由意志による購入だから、普及することも悪いことではない。多くの人が買えば、技術はさらにそうした方向に向かって進むから、エコカー普及は歓迎するところである。問題は、エコでない車が廃棄されていくということにある。

 皆がエコカーに買い換えれば、確かに二酸化炭素は削減され、省エネは進むだろう。しかし、発生した廃棄物の問題はどうなるのだろうか。ある種の環境問題に対処するため、別種の環境問題を引き起こしているとは言えないだろうか。エコカーだけではない。省エネ製品の普及が進むのは良いことだし、金銭的にもエネルギー的にも、省エネ製品に買い換えた方が得かもしれない。だが、廃棄物の発生という別な環境問題への対処では悪化を導く可能性もある。

 同じような経験をした方も多いと思うが、数年前に購入したカメラが故障し修理に持って行ったら「新製品に買い換えた方が安い」と言われたことがある。まるで壊れたら即廃棄することが基本で、修理して長期間使用するという視点がないかのようである。それを正当化するのが新機能であり、今であれば省エネすなわち「エコ」なのだろう。

 このように、一見「エコ」に思えるが、実際にはエコではないことはよくある。大切なのはバランスのとれた姿、「中庸」さである。エネルギー的に良くても廃棄物的にみて問題があるのでは困る。古典的なエコロジストとなったエルンスト・フリードリッヒ・シューマッハが述べた仏教経済学は、中庸さを象徴する環境思想であるが、このシューマッハの考え方からは中間技術の重要性が説かれている。

 シューマッハが生きていたころ、最先端技術は環境破壊の先兵だった。当然、それへの反発は技術の否定という考え方を生み出す。しかし、環境危機を憂いながらも、シューマッハは原始に戻れとも言わなかった。原始の未開社会にも、それなりに問題があるし、そもそも地球人口のすべてが原始社会に戻るには人口が多すぎるのである。仮にそれが可能だとしても、人間の自由意志から見て、強制はいけない。

 シューマッハの見るところ、最先端技術も原始状態も極端すぎる。シューマッハは、先進国入りしていない発展途上国に対し、最先端技術での援助を行うことを無用のことと考えた。大規模な原子力発電所を作るよりも、人力で使えるシャベルが大量にあった方が役立つ社会もある。自動ドアの普及がドアボーイの失業を招くように、先端技術が雇用を奪うことも多い。発展途上国に必要なのは中間技術である。それが身の丈に合ったものなのである。

 省エネ製品の開発も大切だが、故障の少ない製品を開発して、修理しながら長期間使用できるようにしておくのも大切ではないかと思うし、修繕を通じて省エネ化も行えれば、さらに良いように思える。まして「エコ」でもなんでもない地デジなどを推進するならば、無駄と負担を極力抑える工夫をしてから行うべきである。

海上 知明(うなかみ・ともあき)
1960年茨城県生まれ。84年中央大学経済学部卒。企業に勤務しながら大学院に入学して博士号(経済学)を取得。現在,国士舘大学経済学部非常勤講師。著書に「新・環境思想論」(荒地出版社),「環境戦略のすすめ エコシステムとしての日本」(NTT出版)など。