決しておもねず、決して妥協せず--。誰にもおもねることのない一人のエンジニア。決して人嫌いではないが、テクノロジがもたらす価値を社会に還元するために、常に最善を尽くす。そんなエンジニアとしての生き方を貫く主人公「渡瀬浩市」と、その秘書「高杉伊都子」。そして渡瀬のお眼鏡にかなった中学生「金田京太郎」。京太郎と高杉を生徒にした、渡瀬の“コンピュータ授業”が始まる。

「渡瀬君、私はこの窓から眺める夕日が大好きなんだ。明日になればまた新しい日が昇る。どうだね、私とずっと一緒にこの夕日を眺めようじゃないか!」

 東京千代田区の中心に位置する皇居。そのお堀に面した日本オラベルシステムズの30階建てビルの窓から眺める夕日は、まさに絶景だった。日本オラベルの佐々木賢吾社長は、有志がスクラムを組むように親しみと友情を込めて、渡瀬の肩を組んだ。

「はぁ・・・」

 渡瀬は蛇ににらまれたウサギのように身を固くした。佐々木社長の親しみやすさの裏には「渡瀬を逃がさないぞ」という暗黙のメッセージが潜んでいた。

 1990年代、わずか5人で発足した日本オラベルシステムズを東証一部に上場させ、米国本社と肩を並べるほどに急成長させたのは、伝説の営業マンと言われた佐々木社長の手腕だった。

 藤堂経営コンサルタントが経営アドバイスしていた経営者の一人に、ケン・コンピュータの三輪太一社長がいる。三輪社長は1975年からコンピュータ業界の巨人と呼ばれるIBLに勤務していた。三輪社長の当時の上司が佐々木である。三輪社長は藤堂経営コンサルに来るたびに、よく昔話をしてくれた。

「佐々木さんは営業所長でした。私は1975年から1979年まで佐々木さんの下で働いていました。最初の2年間は大阪で営業課長、その後の3年間は日本鋼建・川崎製鉄所の操業管理システムを担当するIBL側のプロジェクトマネージャーと営業課長を兼務していました。
 北海道の大学を出た佐々木さんは、一貫して営業畑を歩んでいました。IBLに転職するまでは車のディーラーをしていたようですが、そこでも営業成績はトップだったらしいです。
 佐々木さんが日本オラベルの社長に就任してからも私に『オラベルシステムズに来ないか?』と誘ってくれたのですが、私と佐々木さんは意見が対立してよくぶつかっていました。今、考えると本音を言えた仲だったからでしょうね。でなければ日本オラベルに誘わないでしょう」

 還暦を過ぎた白髪の三輪社長は、京都大学理学部を卒業した温厚な紳士である。経済論文を書くことが趣味という学者肌の社長で、猪突猛進型の佐々木社長とは反りが合わないのはよく分かった。しかし、三輪社長がもし日本オラベルに転職していたら、間違いなく副社長になっていただろう。

 そんな保護者であり、父親のように絶対的権力を持つ佐々木社長のたくましい腕から逃れた渡瀬は、まるでピーターラビッドのようにたった一人で、データベースという決して表からは見えないコンピュータの奥深い世界を旅するようになったのである。

 そんなことを思い出していた時、私の携帯の着メロが鳴った。カノンの軽やかなメロディとは裏腹に渡瀬の悲鳴のような声が聞こえてきた。

「高杉さん、今すぐに私の研究所にいらして下さい!」

「どうなさったのですか!?」

 渡瀬は、緊急の時はメールではなく、いつも携帯に電話をかけてくる。私は渡瀬の家に泥棒でも入ったのかと思った。