決しておもねず、決して妥協せず--。誰にもおもねることのない一人のエンジニア。決して人嫌いではないが、テクノロジがもたらす価値を社会に還元するために、常に最善を尽くす。そんなエンジニアとしての生き方を貫く主人公「渡瀬浩市」と、その秘書「高杉伊都子」、渡瀬が心を開く中学生「金田京太郎」。豆記者となった京太郎が、渡瀬にエンジニアとしての姿勢を取材し始めた。

「渡瀬所長の発想はとても奇抜でいらっしゃるのですね!」

 私は今まで渡瀬のことを学者肌で生真面目過ぎる堅物のような印象を抱いていた。しかし、漢字コードの渡瀬の発想は私のイメージを180度覆すものだった。固定観念で凝り固まっていたのは私の方だったのかもしれない。

「コンピュータの話なのに、まるで手品の種明かしのようだね! 渡瀬所長はコードのマジシャンだよ! 学校の先生も知らない話だし、学校の授業よりとても面白いよ。僕、ますますコンピュータが好きになったな!」

 京太郎も興奮していた。

「金田君が喜んでくれて、私も嬉しいです。コンピュータはちょっと発想をひねると、まるで生き物のように答えてくれます。私はそれが楽しくて漢字コードに魂を注ぎ、我が子のように愛情を持って作りました。ですから、あの時、ホテルのデモに間に合わせるために刹那的に作ったコードですが、1983年以来今でもIBLの製品として活発に、かつ広い範囲で生き残っているのです」

「パソコン部では『月刊パソコン部ニュース』を発行しているんですが、渡瀬所長のこと、記事にしていいですか? 僕もこんなすごいおじさんと友達なんだって、学校の皆や先生に知らせたいよ!」

「おじさんだなんて。京太郎君、渡瀬所長はとてもお忙しい方なのよ。きょうは特別に研究所に招待して下さったけど、そんなに甘えてはいけないわ」

 何を言い出すかわからない京太郎の制服の袖を引っ張って私は言った。

「『月刊パソコン部ニュース』ですか! 面白そうですね。私のことで良ければどうぞ記事にして下さい」

 渡瀬は穏やかな微笑みを浮かべながら言った。

「それでは早速、取材させていただきます。仕事で苦しかったことと楽しかったことを教えて下さい」

 京太郎はペンを握りしめ、完全に豆記者になりきっていた。

「特に設計、開発において『苦しみ』といった記憶はありません」

「えー!? 意外だな。苦しみの連続かと思ったのに・・・」

 京太郎は拍子抜けしたという表情をしていた。

「まあ、最後まで聞いて下さい。話の続きがありますから」

 渡瀬は紅茶で喉を潤すと子供に昔話を語るように、ゆっくりと語り始めた。

「しかし、『恐怖』はありました。これは27歳頃までだったように思います。『この受けた仕事を納期までにやり遂げないと、上司がまわりから非難される』といった恐怖です。私の上司は、常に私の技量の少しだけ上を行くような仕事を与えてくれました。まだ若かった私に、その上司は最先端や会社にとって重要な仕事を任せてくれたのです。
 この上司は当時、松平技研社内においてダントツの技術力を持った人で、今でもあれほど明晰な頭脳を持った人には会ったことがないと思えるほどの技術者でした。初心者の私は、基本のすべてをこの上司から教わりました。上司以上の恩人であり、敬愛していたのです。そういうわけですから『私がもし失敗すれば、この人が非難される』といった恐怖は、他の人にはおそらく想像できないほど大きなものでした」