決しておもねず、決して妥協せず--。誰にもおもねることのない一人のエンジニア。決して人嫌いではないが、テクノロジがもたらす価値を社会に還元するために、常に最善を尽くす。そんなエンジニアとしての生き方を貫く主人公「渡瀬浩市」と、その秘書になった「高杉伊都子」。高杉が住むマンションの隣室には、中学でパソコン部に所属する「金田京太郎」が住んでいた。

 渡瀬は、1979年に東都大学の工学部電子工学科を卒業した。そして松平技研に入社し、ソフトウエア設計・開発エンジニアとして開発部に配属された。松平技研は大企業ではないが、渡瀬にとっては、エンジニアという職業は人生最高の職業だと心に決めることができたほどに卓越した会社だった。

「松平技研は中小企業ですから、何でも自分でしなければならなかったのです。大企業では役割分担があり、そうはいかなかったかもしれません。それに良い上司、良い先輩に指導を受け、家族的な会社でした。今の私があるのは松平技研があったからです」

 後に渡瀬はそう語っている。

 渡瀬は開発部でリーダー、主任、課長と順調に昇格していった。その間、システムプログラマー、デザイナー、コンサルタントを兼任した。中でも、言語やOS、およびデータベース管理システムのエンジン自体の設計と開発では、渡米を繰り返し、才能を発揮した。

「渡瀬所長、IT国際学術プロジェクト様から講演依頼とスカイベストソフト様からソフトウエア開発セミナーの講師をお願いしたいというメールがきておりますが、いかがいたしましょうか?」

 昨日から同じメールを渡瀬に転送しているが返信はなかった。もう一度、メールしようとした時、私の携帯電話の着メロが鳴った。パッヘルベルの「カノン」である。電話は渡瀬からだ。

「今、マルチバリューモデルを扱えるデータベース・ミドルウエアを設計・開発中なんです。多分、日本で唯一のものですよ。メールは見ましたが、講演やセミナーの講師などやっている暇はありません。どちらも断りのメールを出して下さい」

「かしこまりました」

 渡瀬には、このような講演依頼が多いが、ほとんど白山の研究所から出ることがなく、私が断りのメールを出していた。

「ちょうど良かった高杉さん、初心者向けのデータベースに関する良い書物をお貸ししますので、これからいかがですか?」

「かしこまりました。研究所にいただきにあがりましょうか?」

「いや、1時間後に白山公園でお渡しします」

 分かっていることだが、渡瀬は決して自分と同レベルのエンジニア以外、他人を研究所に招き入れることはなかった。

 取材や講演の依頼のメールを転送すると全くと言っていいほど返信が来ない渡瀬だが、用がある時は一方的に携帯に電話がかかってくる。気難しいエンジニアというものは、このようなものなのかもしれないと私は思った。

白山公園は白山神社本殿の裏手にある小さな公園である。

 4月に入り、公園の桜の大木も満開になっていた。5ぐらいの女の子が2人、ブランコをこいで遊んでいた。2人がけのベンチが四つあり、その一つに渡瀬は腰掛けて桜を見上げていた。

「ちょうど満開になりましたね。綺麗ですね!」

 石段を上ってきたので息を整えて、私は渡瀬の隣に腰を下ろした。

「本当に見事です。きょうはとても暖かく絶好のお花見日和です。ずっとここに座って見ていたいものです」

 外出は好きなほうではないと言っていた渡瀬であるが、心の底から桜の美しさを堪能していた。